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過激な隠遁~高島野十郎評伝 №60 [文芸美術の森]

「月は闇を覗くために開けた穴」

   早稲田大学名誉教授  川崎 浹

  円光の球体だけが夜空に浮かぶ《月》(口絵2)も非売品で、《蝋燭》と同じく高島野十郎個展では展示されたことがない。私は気軽に非「売」品と書いたが、本来「売買」という商取引を前提に措かれた作品ではないので、画家の潔癖さを思えば、これらの絵について、営利と利潤がにおう手垢のついた漢字を不用意に用いるべきではなかった。
 《月》は《蝋燭》に比べて作品数が極度に少なく、私が知るかぎりでは武藤ゆうさんのお宅にお手伝いにきていた女性が、最晩年に高島さんの面倒をみて《月》をいただいた。
彼女と私など《月》の所有者は限られている。
 私は昭和三十八年(一九六三)三月、増尾のアトリエに行きいただいた。高島さんは、「私は月ではなく闇を措きたかった。間を措くために月を措いた。月は闇を覗くために開けた穴です」と説明した。
 画面の上から三分の一ぐらいの所に大きくも小さくもない硬貨ほどの月が輝き、月暈(つきがさ)に包まれている。夜空は、その後私が現地を訪れた際に、知人から頼まれて注意ぶかく観察した、アッシジは聖フランチェスコ寺院の内壁を彩るジョットーの淡い青ではなく、野十郎の蒼である。
 闇は空の濃い藍色と海の深い緑が融合している。幾重にも塗りこめられたといっても、おそらく何十という単位で重層的に絵の具を塗りかさねてできた独特の闇であり、私たちが闇と発音するときの黒いブラックホールではない。この間には生命が溢れているのではなかろうかと思わせるほど黒色から遠い闇である。
 野十郎の思考の行き着く先が「慈悲」だったので、私は闇は生命にみち、月の輝きは「慈悲」の眼差しだろうかと考えてみた。しかしベトナムの惨劇を見るかれの「慈悲」の目は、旧約聖書のヨブ記に似て、そしてヨブ記以上に(ヨブ自身は最後に神から応報をあたえられる)、家族や財産のすべてを犠牲にしても報われることのない、つまりどんな応報もない、地上の人間には冷酷な眼差しである。
 高島野十郎発見のきっかけを作った福岡県立美術館の後藤耕二氏は、野十郎の「慈悲」はアガペーだと定義しているが、「慈悲」もアガペーも二つながら、人間の願望を聞いて人間のつごうどおりに応えてくれる愛ではないということで共通している。
 高島さんは「いま文字を純粋に形として見る修練をしている」と言ったことがある。間を闇として見、表現する修練や実験も可能だろう。だが能役者が舞を動かずに舞ったときの動と静の関係のように、闇を塗りこめながら最後に何をもって闇を表現するか。能役者がつま先をちょっと上げることでそれまでの動きを観客に悟らせたように、闇を闇たらしめるものはなにか。
 野十郎は半ば事実とも韜晦(とうかい)ともつかぬ説明で、評論家の中原佑介氏にこう書かせている。「目下高島氏は暗闇を措こうという執念にとりつかれている、暗闇といってもシンボリックな意味ではなく、正真正銘の暗闇を写生しようというのである」。
 周囲に灯りのない増尾の夜の暗闇で、野十郎はたしかに物理的な意味での真の暗闇に興味をいだいただろう。だれにでも気づかされるのは、光があってこそ闇が見わけられ、逆のこともいえる関係である。
 また人間が見る闇と鳥が見る闇とは異なる。「闇夜を鳥は清くて明るい色と見、人間は暗黒としてしか見ない」(空海『辯顕密二教諭(べんけんみつにきょうろん)』。人間として見れば闇夜は暗く、人間の暗黒を映している。しかし野十郎は鳥となってでも原始の夜を生き、かつ見ようとしていたのではなかろうか。そういう闇は物理的であると同時に非物理的でもある。
 ゴヤの闇は悪魔であると語った野十郎の言葉が私の脳裏に焼きついている。晩年のゴヤは大病で聴覚をうしなう無音の闇のなかで、人びとの救いがたい心の闇を、王朝時代の検閲に向けて迷彩をほどこしながら描いた。
 闇を写実するというとき、『ノート』で画家が「写実」という言葉にどれほどの意味をこめていたかを知れば、かれの闇がただの物理的な黒色ではないことがわかる。闇を究めていくうちに間をして闇たらしめる、闇とは異質のものを兄いだす、これがかれの実験の経緯だったろう。
 かつて放浪の画家と呼ばれた山下清は、一本の樹を描くのに画面の左右から塗りつぶしてゆき、最後に一本の空自を残した。高島さんは「これが本当の樹の描き方です」と言った。かれも間を追求しているうちに最後に円の空自だけが中心に残った。森の上の円、小枝の間の円、葉っぱと雲だけの円、そして最後に円だけとしての月に至るプロセスは物理的な光と闇の対象であると同時に、人間の心の暗部の実験でもある。

川崎(月).jpg


『過激な隠遁~高島野十郎宝殿』 求龍社



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