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医史跡を巡る旅 №96 [雑木林の四季]

安政五年コレラ狂騒曲~小田原辺り其之弐

     保健衛生監視員  小川 優

新型コロナウイルス感染症、国内の新規の感染者数が落ち着いてきました。緊急事態宣言も9月末をもって解除されます。それ自体はとても良いことです。気になることは、今回の波では、急激な減少を説明することのできる理由が見当たらないことです。
ウイルスの特徴としては、一般的には気温と湿度が下がることで失活しにくくなる、言い換えれば感染させる力が高まるはずです。またデータで見る限りでは、繁華街やターミナル駅での人流が、以前に比べて抑制されている状況も見られません。一方でワクチン接種率が60%に達した程度では、社会的免疫の成立には程遠く、ワクチンによる抑制効果を理由に挙げることは難しい状況です。減少の明確な理由がわかれば、そこを抑えることにより再度の感染拡大を防ぐことができます。抑えるべきポイントがわからないままでは、運を天に任せるしかなく、今後再拡大するかどうか、今回の波を越える大流行が来るかどうかは神のみぞ知るということになります。
昨年以来、実質ピークを過ぎてからの緊急事態宣言発令や、見切りで解除したための感染再拡大などを失策を繰り返しており、状況分析と予想の難しさは痛感されます。科学の進歩によって人類は今回、mRNAワクチンという全く新しい武器を手に入れましたが、そもそもの感染コントロールは難しく、結局病原体、ウイルスの気まぐれに翻弄されています。この点は160年余り前の状況と、何ら変わっていないことに気付かされます。

あだしごとはさておき。
安政五年、小田原宿を席巻したコレラは、その近隣にも広がります。前回ご紹介した茅ヶ崎の柳島村名主、藤間柳庵のしたためた「太平年表録 三編」はこう続きます。

先小田原を始として東海道筋北ハ二三里をかぎり、南は海岸つゞき片瀬・腰越・江之島等ハ前条之通り一日か二日にして死亡するを恐怖して、家内を片付三社辯才天へ参籠し、或ハ龍口寺へ馳集る者少からす~「茅ヶ崎市史資料集」第五集 「太平年表録 三編」より

片瀬・腰越・江ノ島あたりは次回取り上げるとして、今回は小田原の北側の状況を見ていきます。地勢的には、小田原は酒匂川と早川に挟まれています。酒匂川は少し遡ると支流の狩川と分かれます。早川は芦ノ湖を源流にして、地形的には険しい場所を流れています。流域には湯本の温泉郷がありますが、江戸時代は現在に比べれば、それほど栄えてはいませんでした。
一方の酒匂川、狩川流域は川の両側が開けた場所が多く、田畑が広がり、人里が散在していました。人がいて、水源がつながっていれば、水系感染するコレラにとっては格好のフィールドとなります。

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「曽我別所下久保 題目塔」 ~神奈川県小田原市曽我別所下久保

前回最後に訪れたのが、小田原市田島の津島神社。ここから少し北に行った曽我の別所に一基の題目塔が建っています。碑文に曰く。

時ニ安政五牛戌七月下旬ヨリ疫病流行シテ八月六日
天下泰平
南無妙法蓮華経 奉唱蓮華題 一千部供養塔 両檀講中
国土安穏
九月十五日ヨリ老若子供ヨテ打寄昼夜御題目唱何事

疫病としか書かれていませんが、安政五年七月下旬とあれば、状況的にコレラで間違いないでしょう。疫病を鎮めるために、老若男女が昼夜を問わず御題目を唱えたことが記されています。

太平年表録では「小田原を始として東海道筋北ハ二三里をかぎり」とあり、一里は約4キロメートルつまり12キロ程ということですが、もう少し北上した山北駅の近くに名号塔があります。町の南側の斜面にある盛翁寺の入口です。

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「山北町山北 名号塔」 ~神奈川県足柄上郡山北町山北

表側にはこう刻まれています。

天下泰平風調雨順
南無阿弥陀佛
村中安全諸災不起 唯念

裏面には苔と風化で読み辛いですが、びっしりと由緒が描き込まれています。コレラに関する記述のみ抜き書きます。

さ禮バ当秋中頃よ里 変病諸国尓流行して命越失ふ輩、其数越志良寿、僅尓当村乃中寄も一月乃間尓六拾餘人尓及遍り爰尓於いて諸乃神明尓誓ひ、佛尓願ふ所、世に有良ん事越祈連共、更尓験那し。今は暫具萬事遠聞處駿州奥之澤、唯念上人遠拝請ひ、至誠尓念佛遠修し、更尓信男信女日課越授与し給ふ尓不思議成可那、病災漸く鎮里

ここではコレラを「変病」と呼んでいます。一か月の間に60人余りの被害が出たが、隣国駿河から唯念上人を招いて祈祷したところ、不思議なことに流行が治まった、とあります。

同じように当地に行者を招いて祈祷してもらい、念仏講を記して名号塔を造立したと考えられるものが、この山北から小田原に至るまで数カ所に残されています。

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「山北町向原 名号塔」 ~神奈川県足柄上郡山北町向原 道路脇

御殿場線東山北駅から山北高校に向かう道端にあります。石塔がいくつか並んでいますが、一番大きなものがご紹介しているもの、安政五年九月の造立です。

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「朝日観音堂 名号塔」 ~神奈川県南足柄市上怒田 朝日観音堂境内

藁ぶきの観音堂の境内、北側の崖に隣してあります。「邑内安全」と刻まれ、安政六年三月の造立です。

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「南足柄市三竹下庭 名号塔」 ~神奈川県南足柄市三竹下庭 道路脇

公共交通機関で行くことが難しい山間部にあります。三叉路の分かれに建てられています。安政六年二月の造立です。
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「小田原市曽比 名号塔」 ~神奈川県小田原市曽比 曽比公民館前

畑に囲まれた公民館の前に鎮座しています。安政五年九月、激しい流行が、やっと落ち着いてきたころに建てられました。

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「福田寺 名号塔」 ~神奈川県小田原市飯田岡 福田寺境内

福田寺は保延二年(1136)に創建されたと伝えられる古いお寺さんです。境内を用水が横切る面白い立地にあります。本堂前にある名号塔は安政五年八月造立。

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「足柄五社稲荷神社 名号塔」 ~神奈川県小田原市蓮正寺 足柄五社稲荷神社境内

地名にある蓮正寺は現在ありません。お稲荷さん(倉稲魂命)の境内にあります。安政五年八月造立。

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「小田原市多古 名号塔」 ~神奈川県小田原市多古 児童公園内

街道から少し入った児童公園、元は小さなお社かお堂の境内だったと思われる広場の片隅にあります。安政五年九月の銘があります。

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「内多古道祖神 名号塔」 ~神奈川県小田原市扇町 白山中学校グラウンド脇

中学校と道で隔てられたグラウンドの片隅に貼り付くように、数基の石塔が建てられており、ひときわ大きな角柱状の石塔がそれです。安政五年九月造立。

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「昌福院 名号塔」 ~神奈川県小田原市東町 昌福院山門前

小田原城下東側のお寺が連なる一角にある昌福院の山門前にあります。2メートル近くある大きな碑で、安政六年九月の造立です。

これらの「南無阿弥陀仏」と刻まれた名号塔のほかに、南足柄市狩野には富士浅間講の供養塔があります。

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「富士浅間大菩薩供養塔」 ~神奈川県南足柄市狩野 狩野公民館前

「安政戌午仲秋海内無病」とあり、コレラ流行時に村内に疫病が入らないように講をつくって祈祷し、大過なく済んだことを感謝して建立されたものと考えられます。狩野地区は湧き水に恵まれており、川の水を使わずに済んだために流行が広がらなかった可能性があります。因みにこの清涼で豊富な水源を用いるために、昭和の初めに富士
フィルムの前身となる工場が当地に建設されました。

これらの安政五年、及び翌六年に建立された石塔の多さから、当時の彼の地における流行が熾烈を極め、住民が恐怖し、神仏にすがるしかなかった様子が垣間見られます。ある場所では供養のため、またある場所では疫病を村に入れないための賽の神として建てられました。
締め括りに、実際の感染状況を小田原近郊の村落、現在の南足柄市、山北町、松田町の記録から見てみましょう。まず現在の南足柄市、雨坪村の商人、熊沢屋の矢野七兵衛が書いた「毎年勘定帳」に、次のような記載があります。

又八月上旬頃より変病流行ニ而老母三日之八ツ時ヨリ病付、四日夕方ニ死去いたし深心院与成る、其外村内江施米・施薬等ヲ差出し、家内も用心之ため服薬いたし、旁以左ニ記置候通物入等多分之年柄、村方ニ而も八月中旬迄病死人男女共弐十五人有之、当組合之内川前四ヶ村者当村方ヨリ多分之病死人、川向四ヶ村者軽死、右様之事ニ付、八月一はゐ九月上旬迄老若男女に不限、只々昼夜之無差別仏神祈候而巳ニ而仕業等不致
~「南足柄市史2」資料編近世(1) 「熊沢屋七兵衛が見た当年の景況」より

ここでは肉親も罹患してわずか1日で亡くなったこと、自分の村で25人が亡くなったが、近隣の村でも感染状況に差があること、村人たちは神仏に祈るのに忙しく仕事が手につかなかったことなどが綴られています。
また隣接する中沼村の名主であった杉本田造も記録帳を残しています。

去る安政五戌午年八月頃初より、稀なる流行病始り、日本国中死去人古今稀なりと申す事にて俗に三日コロリと申す病気に附 三日目当りは死去いたし或は其の日に死去致し 此の病ほう症かくらんと申し一たんにねつ発し 手足をちぢめ薬用いたし候間無く御座候
八月朔日より九月二日まで取調書掛様へ差出し申し候 中沼組合死去人百拾八人 和田組合百廿三人 吉田島組合百拾三人 川村組合百十三人 其の外九月二日改メ 十六組合にて九百五十三人に相成り申し候
遠村御厨筋其の外遠村組合は明三日書上げに相成候事
九月に相成り大いに静には候えど少々ずつは病人之れ有り候 近国は申すに及ばず江戸町様は八月一か月に拾四万三千七百四拾人と申す事にて、御役所にて承り印し置候成
~「足柄史談」第25集 「中沼村名主杉本田造父子の記録」より

ここで言う組合とは、最寄りのいくつかの村落をまとめた当時の行政単位で、例えば中沼組合は中沼、狩野、飯沢、猿山、雨坪、福泉、弘西寺、関本の八つの村から成り立っていました。当時の人口はわかりませんが、一つの村が数百人規模と仮定すると組合で数千人、そのうち百人以上が亡くなっていることになるので、猖獗を極めたことが伺われます。
後段の始めの一文、「九月に相成り大いに静には候えど少々ずつは病人之れ有り候」が、まさに現代、今現在の状況とあまりに酷似していて、共感を覚えます。




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