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海の見る夢 №16 [雑木林の四季]

         海の見る夢
            -ジャニス・ジョプリンと三島由紀夫ー
                    澁澤京子

・・血を吐きだす咽頭の歌
  死を吐き出す生命の歌・・(愛する兄弟よ、私にはよく分かっている、もしお前が唄うのを許されなかったらお前はきっと死んでしまうことを。)
                          
        『遅咲きのライラックが庭前に咲いたとき』~ホイットマン
        
 音楽との相性は人との相性とよく似ていて、何か生理的な根源的なものに根ざしているような気がする。特に好きな音楽は聴いた途端に「これだ!」と言う感じで、まるで一瞬で恋に落ちたような感じになったのである。小学生の時、ビートルズが来日して、その頃仲好かったIさんと言う女の子が「うちのママはビートルズを観に行ったのよ。」と話していたのを覚えている。その頃巷にはビートルズやグループサウンズの音楽が流れていたけど、小学生の時、まるで天啓に打たれたように「これだ!」となった音楽は、車の中のラジオから流れてきたボサノバ。一生懸命ラジオに耳を傾けて「おいしい水」と言うタイトルを覚えた。おそらくアストラッド・ジルベルトが唄っていたと思う。

中学の時、バート・バカラックが流行っていた。友人のSが、学校でバート・バカラックをメドレーで演奏しているのがかっこよくって、私も何曲かピアノで弾けるように練習したのを覚えている。セルジオ・メンデスのように、ピアノを見ないで、微笑みながら弾くのがプロみたいでかっこいいと思っていた。

毎週土曜日の深夜は「トム・ジョーンズショー」を眠いのを我慢して見ていた。Jun & Ropeの提供する番組で、ヨーロッパの古城を長いマントを着た女の人が歩いている、アランフェス交響曲の流れていたCMが懐かしい。その頃は、ツイーギーのように、下まつ毛を長く濃くマスカラで強調したメイク、目が大きくてやせた退廃的な感じのモデルが多かった。

「トム・ジョーンズショー」は、サミー・デイヴィス・JRとかスティーヴィー・ワンダー、ジェームズ・ブラウンがゲストに出ていて、私の好きなビートの効いた音楽が多かった。あと、「アンディ・ウィリアムズショー」もよく見ていた、正しいアメリカ人という感じのアンディ・ウィリアムズの番組で、ゲストにはオズモンド・ブラザースとか出ていたのを覚えている。「アンディ・ウィリアムズショー」のような正統派より、私は圧倒的に「トム・ジョーンズショー」の方が好きだった。リズム感のいい黒人音楽が好きだったのだ。

「トム・ジョーンズショー」で最も衝撃を受けたのはジャニス・ジョプリン。その迫力に圧倒されて、魂を搾り取るような彼女の歌い方から目が離せなくなった時、テロップに「・・ご冥福お祈りします」が流れた。彼女は亡くなったばかり(27歳)で、子供心にも、まるで崖っぷちにいるような彼女の歌い方が切なかった。私は中学一年だった。

自意識が芽生えてきた思春期の女の子の、死ぬほど劣等感を持ったりうぬぼれたりする不安定な危うさがジャニスの歌にはあるし、若い女の子特有の、ヒリヒリするような孤独もジャニスの歌にはある。

ジャニスのような歌い方は誰もできないだろう、差別される黒人の苦しみ、自分が経験したことのない様々な人の深い苦しみを、なぜあんな若い女の子にわかったのか不思議だけど、おそらく、彼女は身体感覚で人の感情をわかるようなところがあって、それを表現できる天才だったのだと思う。

ちょうど同じ秋に自決した三島由紀夫が観念の世界の住民だったのに対し、ジャニス・ジョプリンはその反対に、身体的な感受性を頼りに生きた。三島由紀夫が祖母の独占欲と保護下の元に育ってそこからなかなか抜け出せなかったのに対し、ジャニスは愛を求めてさまよう浮浪児だった。三島由紀夫が人工的な世界を作り上げたのに対し、ジャニスは自然児でバッコスの信女のような狂気すれすれの人だった。二人とも早熟の天才で早くから世間に注目されたのである。

ジャニス・ジョプリンの『サマータイム』を聴くと、若い時の夏の記憶の断片、夏の陽射しが眩しい渋谷の歩道とか、その頃の、いつも満たされない、乾いたような気持ちを思い出す。若い時って、なぜあんなに寂しかったのだろう?

欠乏感を抱えた繊細な若い女の、方向を見失ったエネルギーは、自分に向かって自身を傷つけはじめる事が多い。ジャニスは今でいういわゆる、自傷行為に走る女の子だった。実際、ジャニスほど正直に自分をさらけ出せる女の子っているだろうか?ジャニスには自己憐憫のかけらもないし、虚勢も張らない。だからこそ痛みが人の心に直接届く。どんなに傷つけられても自分をさらけ出してしまう、無防備な女・・最も、彼女が防衛心や虚栄心の強い普通の女の子だったら、とてもあんな風に歌うことはできなかっただろうし、どんなに自分をさらけ出しても決して品が落ちることがないのは、彼女が本当の魂というものを知っていたからに違いない。

ジャニス・ジョプリンはケンタッキー州の田舎町に育った。両親ともインテリでリベラルな中流家庭で、特に母親から熱心な芸術教育を受けたジャニスは自由奔放にふるまう、反抗的な女の子で、保守的な田舎町ではいつも浮いてしまう存在だったらしい・・

飛び級したジャニスは本の好きな少女だったという。ビート詩人のギンスバーグやケルアック、ニーチェ、ボードレールを好み、特にフィツジェラルドの妻、ゼルダには夢中になったらしい。晩年、精神を病んだゼルダには「壊れる」と言う私小説があるけど、奔放なところも反抗的なところも共感するものがあったのかもしれない。

自暴自棄のようなめちゃくちゃな生活も、ドラッグに溺れたのも、緩慢な自殺の手段だったとしか思えない。
ジャニスのドキュメンタリー『リトル・ガール・ブルー』を見ると、最後の恋人が彼女をドラッグから立ち直らせたようだ。彼女に、初めてまともな幸せをもたらしてくれる恋人だったのかもしれない。

命綱のような恋人が遠い外国にいるとき、ジャニスは寂しさに耐えきれず、ついドラッグに手を出して死んだ。恋人との手紙の行き違いで絶望したのだ・・ほんの少しの擦れ違いが彼女を死に導いた。
恋人から便りが来ないのが我慢できずに手を出したドラッグで死ぬなんて、彼女は思ってもみなかっただろう。

「もう少し(恋人の便りを)待ってみよう」とか、未来の幸福や後先を考える大人の自制心や計画性というものをジャニスはまったく持てなかった。子供には常に「今」しかないように、彼女にはいつも逃げ場のない「今」しかなくて、寂しくなれば、絶望するほど寂しかった。

三島由紀夫が世間で作られる自分の虚像を半ば楽しんでいた節があったのに対して、ジャニスは有名になって世間で作られる自分の虚像と真実の自分とのギャップに苦しんだ。ジャニスの恋人たちの証言によると、彼女はステージではワイルドで奔放にふるまう反面、私生活では驚くほど優しく男に尽すような女だったという。

三島由紀夫は自分の中の空虚を恐れたけど、ジャニスは、歌い出した瞬間に自我(自意識)を消去して空間からドラマを引きずり出すことができた。音楽でも美術でも、自意識ほど心を表現する上で邪魔なものはないだろう。彼女は自分を空洞にして、別の次元に身を任せられる巫女体質的なところがあったんじゃないかと思う。歌っていたのではなく歌わされていた感じがある。才能あるミュージシャンやダンサーにはそういった巫女体質的なところがある人が多い。

三島由紀夫が「言葉」の人であるのに対し、彼女はまさに「音楽」そのものだった。そして二人とも、普通の人間が苦労して身に着ける技術をすでに若い時から持っていた。

何もかも正反対の二人だけど、三島由紀夫は自決を決意した頃からだんだんジャニスに似てきたような気がする。三島由紀夫が自死する前、「まるで、何ものかに憑依されたような」とは多くの周囲の人の証言にある。
二人とも早熟な才能を持った、永遠の子供だったのではないだろうか。子供というのは何時も崖っぷちにいるものだ。そして、二人とも強烈な夏の陽射しにいつも「死」を見ていたのだろう。

1970年。「イージーライダー」が公開され、日米安保は継続され、藤圭子の「夢は夜開く」が大ヒットした年。横尾忠則のポスターのように、日本はアメリカ化された部分と、敗戦後の埃臭さが混在していた。街にはまだ貧しさというものが残っていた。そしてアメリカも、子供の頃によく見ていたアメリカホームドラマに出てくる明るいアメリカだけじゃなくて影の部分もあることを、私はジャニスの歌やその後よく聴くようになるジャズを通して知った。

・・あと二年のうちに自主性を回復せねば、左派の言ふ如く、自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終わるだろう・・『檄』三島由紀夫

三島由紀夫の予言通り、日本はいまだアメリカの顔色を伺い、主体性を失ったままここまで来てしまった。主体性のないままどんどん右傾化した日本。

私が高校の頃、日本の原点はまるで東北にあるかのような東北ブームが起こり、寺山修司や唐十郎が活躍した。土門拳の写真が脚光を浴びていた。『仁義なき戦い』がブームとなり、日本の土着的なものが流行していた。(市原悦子,白石加代子の『トロイアの女たち』の舞台で、急に演歌が流れたのを覚えている)土着的な泥臭いものに「原点」とか「本物」を求めていたのかもしれない。

三島由紀夫は日本人が日本人の魂が失われている事を憂えて自決したけど、グローバル化された今、魂を失ったのは日本だけの問題じゃないことに気が付く。魂を失ったのは、ナショナリズムの問題だろうか?「桜を見る会」で取り戻せるようなものなんだろうか?三島由紀夫が何よりも嫌ったのは、そういったとってつけたような薄っぺらな愛国心ではないだろうか?

何もかも蛍光灯に照らされたようなつまらない社会で失われたものは、生のリアリティではないだろうか?三島由紀夫が歌舞伎や月岡芳年のおどろおどろしさを好んだのも、藤圭子の暗い歌がヒットしたのも、ジャニスが黒人の悲しみを唄ったのも、社会から失われてゆく生のリアリティを求めて、なのかもしれない。ジミ・ヘンドリクスが亡くなったのもやはり1970年で、ジャニスと同じ27歳だった。

生きることの根底には、生きる悲しみがベースにあるように思う。悲しみがベースになっているからこそ、生の輝きがある。都市が再開発されるごとに、街から闇と生活の匂いというものが消えて、どんどん日本はつまらない国になっていった。

三島由紀夫もジャニス・ジョプリンもジミ・ヘンドリクスもディオニソス的な狂気をふんだんに持っていて、三人とも60年代の熱狂の最後の花火のように、散っていった。


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