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梟翁夜話 №96 [雑木林の四季]

「平等と云ふ名の寓話」

        翻訳家  島村泰治

手は左右にあって、同じやうに働いて初めて手らしい。これはその通りだ。かしわ手もさうなくては真面(まとも)に打てぬし、それは済まぬと詫びるにも両手を等しく合わせねばこちらの気持ちが伝わらぬ。

この辺りの道理に異を唱えるものはをるまい。同じやうに見えて左右の手には妙なる違いがあることも否定はできまい。俗に云ふ利き手のことだ。すべて等しきかるべしとする輩は、それと認めながら眉を寄せぬとも限らぬが、両手間の不平等とても、大乗的には意に介すべきものでは到底ない。

この平等と云ふ概念が昨今謂はれなく横行して、人の生き様に異様なストレスを課してゐることに、筆者は耐へられぬ違和感を覚える。さて物ごとはすべて平等であれかしと唱える仕草が、果たして真面か否か、暫し考へてみたい。昨今の風潮で何とも遣る瀬無いのは、男のするものは全て女もすべきだ、と云ふ曲論だ。およそ差別は怪しからんとの正義を盾に、男女の区別もせぬとは怪しからぬ。美味を愛でるに男はよし女はならぬなどは、もちろん以ての外の差別だが、男なら挙げられる何貫もの貨物を女に差し挙げるべしと云ふが如きは愚にもつかぬ。

さて、女は須(すべか)らく男に比すべしとの主張は、果たして男女どちらに発火点があるのだらうか。筆者が穏当に想像するところ、これはフェミニズムの延長上にポリーブのやうに咲いた徒花(あだばな)に違ひない。話がややこしくなってゐるのは、その過程で何時からかLGBT話が紛れ込んだからだ。中間性の勢ひを取り込んで、フェミニズムは男女同権論にとんでもない力(りき)を加えた気配がある。少なくとも、男の側から女を男らしくせんとの動きを主導したとは到底思へないし、楚々とした女子(をなご)が言ひ出しっぺとも考え難い。穿(うが)れば、男っ気のある女、いわば嘗てのナブラチロワ風情の美丈夫が火付け役だったのではなからうか。

LGBTの実像を熟知してはゐない筆者には、この種の中間性人いや無性人(むせいじん)たちがどちらの立場に立つのか、釈然とは理解できない。トランスジェンダーつまりジェンダー(性)をトランス(動かす、運ぶ)して男女別を乗り越える感覚だらうから、どちらかと問はば平等意識が強からう。いや、さらに男女を問ふてくれるなと両性の同一性さえ主張するやも知れぬ。

男女平等論には、尤もらしさの裏に頗(すこぶ)る付きの矛盾がある。体育系の場面でそれが顕著で、平等を唱えながら競技種目は男女別に競わせ、記録を別記する。平等を唱へるなら、男女の壁を取り去って記録を統一しては如何?拳闘にせよ柔道にせよ、男女をこき混ぜて闘わせ、女らしからぬ女が男を叩きのめす姿を夢見ては如何?

それは暴論として、体力勝負の世界で「平等」を鼓吹する具体策はありやなしや。実はそれがある。男女別に加へて例の無性人のカテゴリーを新たに設ければいい。ナブラチロワや人見絹枝たちには、別枠で記録を競はせればいい。強面の男たちは彼らなりに、楚々たる女子(をなご)たちも彼女たちなりに違和感なく競えるだらうし、無性人たちも非差別意識なしにジェンダーを超えた者たち自身の記録を競へやうと云ふものだ。

ここまで書き連ねながら、筆者は耐え難い焦燥感に苛まれてをる。男女を観念的な平等論で並列化し、やることなすこと等しかるべしとする愚論に付き合う虚しさに、筆が鈍るのである。等しげに見える両手に利き手があるが如く、男と女にもそれがある自然を観念的に拒むのは理に沿わぬ。平等とは機会の均等であり、機能の並列ではない。LGBTは埒外、純然たる男女間に於いては差別ならぬ区別、つまり違ひは必然で、その微妙極まる違ひとその絡み合ひそのものが美意識の源泉ですらあるのだ。

思いつきの、観念的な平等意識は、こと男女間に関しては不毛だ。況や歪んだ同権意識なぞは両性の好ましい有り様に関する限り無用である。先ずはかしわ手を打たれよ。如何な響きが出るや出ざるや、有機的な平等はそこにこそあることを悟られよかし。


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