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多摩のむかし道と伝説の旅 №69 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

          多摩のむかし道と伝説の旅
      -渋沢一族が主導した飯能戦争の戦跡を巡る-5

               原田環爾

 先の橋本屋に戻ってその前を北へ向かう坂道を採る。坂道半ば左に文政8年造立の馬頭観音塔が立っている。坂飯能戦争5-1.jpg飯能戦争5-2.jpgを登り切ると先のバス通りとの交差点になる。交差点を横切り緩やかな坂を上ると右手に飯能市市民会館のある広い敷地が現れる。右折してその敷地に入ると右手の一角に 飯能市郷土館がある。郷土館には飯能戦争や振武軍に関わる資料も展示されている。かつて筆者が訪れた折は振武軍旗や新政府軍が打ち込んだ砲弾などが展示されていた。
 郷土館の横を東へ抜けると諏訪八幡神社がある。境内には七福神の恵比寿を祀る恵比寿神社もある。由緒書によれば、諏訪八幡神社は永正13年(1516)、加治一族(中山氏)と平重清(畠山氏)との合力によって建御名方命を祀ったものといい、後に信州より諏訪明神を勧請し諏訪八幡社となった。安永年間(1772~1760)火災により焼失したが、後再建された。
飯能戦争5-3.jpg 諏訪神社を通り抜け県道70号を50mも東へ進めば観音寺がある。新義真言宗智山派の寺で正式には般若山長寿院観音寺と称する。創建年代は不詳。本尊は如意輪観音である。高麗郡三十三ヶ所霊場の十番札所として信仰を集めている。境内には四国八十八ヶ所霊場のお砂踏所もある。面白いことに鐘楼に鐘ではなく何故か白い像の石造が納められている。慶応4年の飯能戦争の折、約130人の振武軍が布陣していたため新政府軍の攻撃でことごとく焼失したが、明治16年再建された。
 観音寺を後にして帰路に向かうことにする。再び70号線を東に進み南北に走る車道と丁字路でぶつかる。右折するとそこが飯能市立図書館前だ。この付近は高札場があった所で、飯能戦争で兵火にあったと言われる。そこから再び東へ伸びる中央通りに入る。沿道には所々古びた土蔵風の家屋が目に入る。程なく飯能大通り商店街に入る。交差点「広小路」で右折しすぐまた左斜めに入る小道を採る。小道は川寺街道と言う。川寺街道を道なりに進むと間もなくショッピングセンターPePeの大きなビルに至る。PePeに沿って東を100mも進めば西武池袋線の飯能駅の改札口に至る。今回の飯能戦争の戦跡の旅はここで終わる。
 ところで飯能戦争で壊滅した振武軍を主導した渋沢一族はその後どんな運命を辿ったのであろうか。その顛末を辿ってみる。
飯能戦争5-4.jpg 頭取渋沢成一郎は羅漢山(天覧山)から裏山伝いに、新政府軍の落ち武者狩りを避けながら日高、秩父から上州方面を経由して仙台に至り。そこで榎本武揚率いる幕府軍艦に乗り函館へ渡った。函館では小彰義隊頭取に就任し、湯ノ川村海岸で新政府軍と対峙した。明治2年5月18日、函館戦争で敗れると投降し捕らわ れの身となった。しかし明治5年許され、渋沢栄一の推薦で大蔵省に出仕し、近代製糸産業の調査のため渡欧している。明治6年官を辞して実業家へ転身、横浜の生糸貿易で成功し財をなした。
 また副頭取の尾高惇忠は渋沢成一郎と共に羅漢山の裏山伝いに逃走。途中で誠一郎と別れ上州や武州の各地に身を隠した後、郷里の血洗島村に潜んで次節到来を待った。明治2年静岡藩庁の役人に。明治3年民部省に出仕。明治5年官営富岡製糸工場初代工場長に就任している。
飯能戦争5-5.jpg飯能戦争5-6.jpg 一方、振武軍の参謀を務めた渋沢平九郎(惇忠の実弟、渋沢栄一の養子)は、入間川笹井河原での新政府軍との戦で受けた肩の重傷を負ったまま一人吾野の顔振峠の茶屋を経て越生に向かった。しかし黒山村まで下った所で新政府軍の斥候に発見され、切り合いの末銃弾で重傷を負い、ついには路傍の石の上で自刃して果てた。享年22歳。渋沢一族唯一の戦死者である。近くの全洞院の墓苑には胴塚がある。首は生越の今市村で晒し首となり、法恩寺に首塚がある。平九郎が自刃した黒山の地には「渋沢平九郎自決之地碑」と「自刃岩」がある。また傍らに毎年真っ赤な実をつける大きなぐみの木が育っている。村人はこれを「平九郎ぐみ」と呼び決して食べないとのことだ。
 後日談であるが、明治44年3月帝国劇場が竣工。会長は渋沢栄一で6月27日歌舞伎「振武軍」が上演され世に知られることとなった。(完)
                                                                        

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