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現代の生老病死 №3 [心の小径]

現代の生老病死~引き延ばされる老・病・死と操作される生 

       立川市・光西寺  寿台順誠

1.四苦八苦 3

 確かに仏教はキリスト教など他の宗教のように奇跡を信じるということはありませんから、時々、仏教は近代的な自然科学とも衝突しないというようなことが言われることがあります。そして、そのような担え方から、「生老病死の苦がある」という話もまるで自然現象の因果のように考えられている場合もあるかもしれませんね。又、お釈迦様は、実はお釈迦様が世に出ようが出まいが、誰でも発見出来るような自然的な真理を発見した人であるというような形で、仏教というものが語られてきたということもあったと思います。が、私はこのような捉え方は間違っていると思います。「人生が苦である」というのは、お釈迦様の思想・哲学を述べられたものであり、それはお釈迦様が説かれたものだから私たちは信ずるというところで、初めて仏教は宗教だということが言えるのではないでしょうか。
 或いは、宗教には「創唱宗教」(一人の創唱者によって始まった宗教)と「自然宗教」(自然発生的に始まった宗教)という分類の仕方もありますが、通常、仏教はキリスト教やイスラム教とともに前者に分類されます。ところが、お釈迦様が説かれた「生老病死の苦」を、まるで単なる自然現象のようなものだと考えることは、仏教を自然宗教化することに他なりません。しかし、ゴータマ・シツダールダという固有名詞を持った人が、「生があるから老病死がある」という縁起の法を悟ることによってゴータマ・ブッタになったのであり、そのゴータマ・ブッダが説かれた教えを「仏教」と言うのですから、それはれっきとした創唱宗教なのです。いずれにせよ、こうしたことをはっきりさせておかないと、仏教の宗教としての意味が見失われるのではないかと思いますので、最初にこうしたことを少し長々と話させていただいた次第です。
 それでは、このあたりから具体的な内容に入りましよう0私たちが「生老病死の苦」ということを実感し認識する順序としては、やはり先ずは「老・病・死」を「苦」だと実感しながら、その挙句に以上に述べた「信仰上の飛躍」を経て「生れてきたこと自体が苦である」という認識に辿り着くということがあると思います。ですから、以下の話ではそうした順序に沿って、先ず「老・病・死」の過程が医学・医療の発達によって大変引き延ばされているところに現代の「老苦・病苦・死苦」があるということを申し上げた上で、次にその因を探っていくと、現代では「生」が操作されており、その根本に「優生思想」の問題があるというところに辿り着くということを、生命倫理学の知見を通して述べてみたいと思う次第です。換言するならば、人間は「老・病・軌等の「苦」から逃れるために医学・医療を飛躍的に発展させ、ついに「生」の領域まで人工的に操作するようになった訳ですが、その操作が「優生思想」に基づくものである分、引き延ばされた「老・病・死」の現実が「優れている」とは言い難いことから、かえって苦しみに満ちたものになってしまう、という皮肉な結果につながっているということを申し上げることになると思います。
 尚、先ほど申し上げたように、「生老病死」以外にも「貧病争」等いくらでも苦は挙げられる訳ですが、ここではそれらの苦を多く並べ立てる意味はないと思いますので、以下は現代の「生老病死」に問題を絞りたいと思います。

名古屋市中川区 真宗大谷派・正雲寺の公開講座より



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