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過激な隠遁~高島野十郎評伝 №59 [文芸美術の森]

祈りを込めた絵 2

     早稲田大学名誉教授  川崎 浹

 目の前にある《蝋燭》の芯は微光のもとで若々しく、人生の可能性といえるほどの長さを保ち、焔はいくつかの屈折をみせながら、鋭く強い切っ先となっている。それは空間に融合するというより空間に食いつく蛇の赤い舌先だ。「絶頂では人間は吹き消される。絶
頂では人間は神自身だ。人間はそこでは不在だ、眠りだ」(『蝋燭の焔』というバシエラールの言葉も自然に聞こえる。《蝋燭》を眺めていると「心の安らぎをおぼえる」と言う人もいれば、かつての私のように安らぎとは反対の印象をもつ者もいる。
 ランプだけの部屋で、もの音ひとつせぬ間の中で、野十郎は蝋燭を措く「魔業」にだけ集中したのだが、私の手もとにある《蝋燭》の焔は体制社会を切り裂くテロリストの刃をかつて連想させた。当時私は帝政末期ロシアのテロリストの本を訳したので、あえてそう語ったことがある。しかし現在でもそれが牽強付会の説ではないと思わせる緊迫した色と 形の格闘が見られる。あの初期の絵に独特のワープする反りが焔の上部に鋭く取りこま
れ、妖気を漂わせている。
 しかし基本的には、蝋燭の芯は生きるものの残りの寿命であり、焔は燃焼中の生命を象徴していると私はぱくぜんと考えてきた。さらに近年、私は《蝋燭》の焔はうつろいゆく生命エネルギーの「現象」という名にもっともふさわしいと思うようになった。
 その矢先、たまたま開いた宮沢賢治の詩『春と修羅』の書き出しに「わたくしといふ現象は/仮定された有機交流電燈の/ひとつの青い照明です」とあり、「現象」という言葉との出会いに驚き、独創的な発想に詩人のすごさを感じた、私は賢治と一体になったよう
な気がした。これはまだティヤール・ド・シャルダンの『現象としての人間』が六〇年代の日本に紹介されるよりずっと以前の詩である。『現象としての人間』が私の愛読書であったことなどすっかり忘れていた。
 解釈は自由であることに画家自身が同音℃ているのだから、私は《蝋燭》の副題を「現象」とすることにきめる。すると私はいままで気づかなかったことに急に気づくのである。野十郎のもっとも近い所に《蝋燭》の寓意をとく鍵や、かれが身ぶり手ぶりで言わんとした「また在らずに非ざるなり」にも通じる解があるではないかと。『十住心論』にはこう書いてあった。
 「空は現象しているものの根本である。現象しているものは実在ではないけれども、それぞれのものがさながらにそのまま現存している。絶対の空は (対立を超えているから)空ではなく、空をも否定するものとして特定のものにとどまることがない。
 存在するものは空にはかならないから、もろもろの現象をたてても、それはそのまま、さながらにして空である。空は存在するものと異なったものではないから、存在するものの諸相を否定しても、それらはそのままさながらにして存在する。だから存在するものは空であり、空はそのまま存在するものである。もろもろの現象している存在もまた同様であり、そのようでないものは何物もない」。
 野十郎が好んだ仰山和尚の語録に絵措きにかかわる次の一文がある。
「虚空に何か描こうとして一筆を下せば、もはや空ではないからもう誤りだ。まして何かの形をなし色彩を加えようとしても、虚空は元来形がないから、何の役にも立たない。いま万松がここに○(一円相)を描いて見ても、真に本分を表すことはできず、栓索のあとを露わすのみで余計な徒労である」。
 野十郎が自嘲する絵描きの 「魔業」とは、「何の役にも立たない徒労である」と仰山から罵倒されながらも、それにうちかつ 「現象」を額縁の枠内に繋ぎとめることにあった。背景の茶褐色、焔の屈折、台座に映る焔のかすかに黄金色の影、蝋芯をとりまく黒い楕円形と、それに対応する台下の黒い長方形。《蝋燭》は一分の揺るぎもない緊密な構成によって私を凝然とさせる。同時にこの素朴きわまりない物質は、さまざまな焔の形と色によって聖性のかなたに飛翔しようとする、その一瞬の静謡感を私にあたえる。
 私自身刻々と変化するものらしい。以上の文章を書いてのち数ヶ月へて今見ると、焔は敬虔な垂直の光として私の心に、もはや一瞬ではなく永世の安らぎをあたえるかのようだ。

『過激な隠遁~高島野十郎評伝』 求龍社


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