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医史跡を巡る旅 №95 [雑木林の四季]

安政五年コレラ狂騒曲~小田原其之壱

          保健衛生監視員  小川 優

首都圏の新型コロナの新規感染者数は、ここにきて大きく減少傾向です。一方重症者数については依然高い水準ですが、徐々に減ってはきているようです。とはいえ9月から学校が再開されたところも多く、若年層の感染者割合が増加している現況下、このままこの流れが続くか否かは、今しばらく注視しなければいけません。
データを見る限りでは人流抑制が進んだ様子もなく、明らかなターニング・ポイントが特定できない状態ですから、このまま新規感染者が素直に減っていくのか、確信が持てません。令和2年4月7日の緊急事態宣言により、第1波の感染爆発が抑えられたとされますが、実際のところ、他人事だと思っていた人々が身近な危機として認識したきっかけは、3月30日の志村けんさんの訃報だったのではないでしょうか。あるいは人によっては3月23日の都知事による「ロックダウン」発言かもしれません。いずれにせよこの時は、人流が大幅に減少し、新規感染者を抑え込むことに成功しました。
今回減少が顕著になった時期的には、オリンピック閉幕、あるいは自宅療養者の激増と、自宅死亡者に関する報道などが該当しそうですが、それが行動変容に繋がったのかについては、裏付けるデータが今のところ不足しています。

あだしごとはさておき。
西から進んできた安政五年のコレラパンデミック、7月にはとうとう箱根の峠を越えます。否、今となってはそれぞれの地の初発患者発生の正確な時系列がわかりませんから、廻船や参勤交代に紛れて東進し、落下傘降下式に関東近郊の宿場や港に侵入したものが、リバウンドした可能性も否定はできません。
ただ、当時の記録はこう書き留めています。

七月中旬頃より世上に恠有之病気流行して、為之に死卒すること挙てかぞへがたし、一帯此流病之起迫は、風と魂飛眼くらみ、覚えす転倒するより吐瀉甚しく相成、暫時之内惣身冷えわたり薬汁を腹容せす気血を洩し虚腹となり、一日か二日にして枯死す、嗚呼天なるかな命成る哉、最初御府内市中抔は三日転りと唱へけるか、八月に至りてハ二日転り、一日ころり抔といひはやし、衆人驚慮すること譬へハ猿猴の鶚鷺にあふが如し、此症松平隠岐守殿参府の節、附きたるという説専にして、已に小田原駅に御止宿の節供候の面々二三十人も即死し、夫ゟ同駅流行となりしと申伝へ、御通行之節も路傍之民家門を閉、又は呪詛之赤紙を張て流病を除せんとする者軒を算ふるにひとし、しかれハ此症村々江充たれハ、諸人神仏へ祈誓し、不時に氏神の祭祀を営ミ神輿を出し神子之神楽をさゝげ神慮を慰む、又甚しきハ一村挙りて門松を立年賀を祝し、或は家業を休ミ念仏真言題目に日を費し、中にハ野狐に干され修験をたのミ、火生三昧や熱湯入之業法を受く、此念いかんとなれハ野狐人腹に入て臓腑を喰ふという説、全俗薄之弄言也
~「茅ヶ崎市史資料集」第五集 「太平年表録 三編」より

これをしたためたのは、茅ヶ崎の柳島村名主であった藤間柳庵です。小田原にコレラを持ち込んだとされるのは、松平隠岐守様御一行とのこと。時の松平隠岐守は、伊予松山藩の松平勝成。一方原宿での初発ケースでは大老の井伊掃部頭こと井伊直弼の家臣でしたから、同じ大大名御一行、それも幕府要人ということになります。もちろん石高の高い、すなわち家臣の数も多いということで、感染機会も多かったかとは思います。しかし外圧に負けて開国したことへの民衆の不安、さらに度重なる天災、疫病により苦しめられている状況があり、幕府に対する潜在的な不満は高まっていたでしょう。こうした背景を考えると、両方の記録とも伝聞であり、情報にバイアスがかかっている可能性はあります。

ご当地の人間が小田原宿の様子を記録したもの、正確に言うと明治になってから当時のことを回顧して記された記録があります。小田原で質商を営んでいた関氏の妻が記した「関氏老母日記」の中で、明治2年に安政5年のことを思い出して書いた下りになります。

安政五年
七月末よりころりと名附急ひようはやり八月に相成所々にてなんきいたし狐のわさと申病人をせめ中には大稲荷様江つれ行色々と致し大いなり様でしぬも有り皆々商売もやすみ夜中ねんふつにて町々廻りほつけしゆうはしゆうしをとなへ中には大山様へはたかまいりいたし今日にあすのことしれ不申皆々しんじんはかり致し居り候
~「明治小田原町誌」上 「関氏老母日記」より

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「大稲荷神社」 ~神奈川県小田原市城山

駿河の場合と同じく、ここでも狐が原因とされています。コレラに罹患した患者が連れていかれたのが大稲荷神社。大稲荷神社は小田原駅近く、小田原城から連なる小高い丘の上に鎮座しており、城の鬼門を守る城主大久保氏の信仰篤き神社でした。しかし祈祷を行うなど、ここで治療するのならまだ良いのですが、憑いた狐を落とすために「色々と致し」たため、病状が悪化してそのまま死んでしまう者もいた記しています。
また大山様とは、大山講で知られた伊勢原の大山阿夫利神社のことで、「はたかまいり」は裸参り。宗旨によって念仏、法華経を唱えるのはどこも同じです。

小田原宿の総鎮守は松原大明神こと松原神社。こちらも小田原藩藩主大久保氏からも崇敬され、小田原藩の藩社としての性格も帯びていました。

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「松原神社」 ~神奈川県小田原市本町

足柄上郡高尾村「午年御用留」に残る記録では、八月七日に松原大明神で病難除の、同じく稲荷大明神でも祈祷が行われることが代官から村々に通達されています。(交流の文化史 小田原近世史研究会より)

もちろん信心や、加持祈祷でコレラの拡大が収まるわけはありません。山梨の市川村の名主喜左衛門の日記「暴瀉病流行日記」によると、9月20日までの小田原の死者は1,825人としています。

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「袖ケ浦地蔵尊(やんばら地蔵)」 ~神奈川県小田原市浜町

小田原の町を海側に歩き、海岸に近くに小さなお堂があります。現在は住宅地ですが、かつては港の外れ、藪原の中にあったので「やんばら」、あるいはその御利益から厄払、それがなまって「やんばら」と、通称には諸説あるようです。小田原市が立てた高札には、「安政年間、相模湾の沖合で獲れた魚からコレラが蔓延して村内から数十人の死者が出たがその後、疫病退散の仏として崇拝され、又出漁の船の安全と子供の庇護の仏として村人に祈念された」とあります。
コレラ菌は元々汽水域に生息する細菌で、特に甲殻類や水生植物中によく見られます。ひとたび人の生活圏に入り込むと、患者の糞便を介して水を汚染し、その水を飲むことによって、さらに感染が広まります。また汚染海域に住む魚介類にも取り込まれ、それを加熱せずに摂取することによっても感染します。コレラ流行時には、生水を避け、海産物は加熱して食べることが重要な予防方法となります。
小田原は海に近いこともあり、真水の確保には苦労したようです。小田原城の西を流れる早川から人工的に水を引き、小田原用水として城下町の飲料水の供給を担いました。小田原用水は明治28年(1895)のコレラ大流行を機に、市内に上水道が引かれて、飲料水供給の役割を終えました。安政のコレラ流行の際も、感染の拡大にこの用水が関わった可能性があります。

安政以後明治に入っても、コレラを始めとする疫病にたびたび脅かされた小田原市内には、あちこちに行疫神である牛頭天王を祀るお社があります。

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「牛頭天王社」 ~神奈川県小田原市板橋

牛頭天王は京都の祇園社の祭神として、疫病を広める一方、それを鎮める行疫神として信仰されました。軽んじればはやりやまいという災いをなし、きちんとお祀りすれば疫病を抑えるという性格があります。元は祇園精舎の守護神として、また薬師如来の垂迹であるとされますが、為政者による神仏習合、分離を経て素戔嗚尊と同一視されるようになったとされています。祇園祭でご紹介した蘇民将来伝説にも、武塔天神やスサノオと名を変えて登場します。
社に立てられた小田原市の説明板には、「地元の古老の記憶では、明治43年(1910)に流行病をなくすため板橋のこの地におまつりした」と記されています。

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「天王横町 牛頭天王祠」 ~神奈川県小田原市南町

小田原城から国道1号線旧道、つまり東海道を箱根方面へ、ういろう屋を過ぎて海に向かって曲がると、かって天王横町と呼ばれていた辺りになります。名前の由来となったのが、この天王様の祠です。通り沿いですが気付きにくく、今では手を合わせる人も少なくなって、寂れた感じが物悲しくもあります。

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「天王神社」 ~神奈川県小田原市浜町

今度は東海道を大磯側に進みます。お寿司屋さんの脇に路地があり、その奥にあるのが天王神社。元々は新宿と呼ばれていた町内には、三カ所に社がありましたが、これを昭和25年に合祀したのが今ある社になります。牛頭天王、澤守稲荷、道祖神をお祀りしているそうです。

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「行疫善神宮(行疫神社)」 ~神奈川県小田原市東町

さらに東海道を東進すると山側には寺院が並んでおり、酒匂川の少し手前にあるのが常顕寺。その山門のすぐ脇に、今にも崩れそうな社があります。天保12年に昌平坂学問所が編纂した新編相模風土記稿にも、「行疫神社」と記載があります。安政年間に網一色村の有志が、お社を再建し神像を新たに御造りして納めた、との記録があるそうです。

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「津島神社」 ~神奈川県小田原市田島

酒匂川を渡って小田原市街からは少し離れ、梅林で有名な曽我のすぐ南に津島神社があります。由緒によると大変歴史のある神社で、鎌倉時代に北条政子から社地を賜り、尾張の津島神社から祭神として牛頭天王を勧進したのが始まりとされます。明治になって祭神を素戔嗚尊に改めたと記録されています。

この津島神社の近くに、安政五年に建立された題目塔があります。酒匂川及びその支流の狩川に沿って、特徴的な題目塔が安政五年から翌六年にかけて造立されています。小田原宿のコレラ流行は周辺の村々も巻き込み、そこでも多くの犠牲者を出しました。次回は、この安政のコレラ流行に係わりがあると考えられる題目塔、秀學六字名号碑を巡ってみたいと思います。


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