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多摩のむかし道と伝説の旅 №68 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

           多摩のむかし道と伝説の旅
      -渋沢一族が主導した飯能戦争の戦跡を巡る-4

               原田環爾

飯能戦績3-5.jpg 折角ここまで来たので飯能戦争の戦跡とは関係ないが鎌倉武士畠山重忠ゆかりの伝承地があるので寄り道することにする。山頂の片隅にある道標「多峯主山」に従い、深い樹林の中をうねうねと下って行く。やがて谷筋を縫う1本の細い道筋にたどり着く。この道は多峯主山への登り道で、この坂道のことを「見返り坂」と呼んでいる。この坂道には平安末から鎌倉初頭に活躍し、武蔵武士の鑑と言われた畠山重忠にまつわる伝承が残されている。治承4年(1160)源頼朝が石橋山で挙兵した時、畠山重忠は当初平氏として頼朝に対峙したが、その後秩父系の諸豪族を伴って頼朝軍に参陣した。重忠は源義経に従って西国に下り源平戦で目覚しい活躍をした。彼は武勇に秀でているだけでなく、歌舞管弦等の文化的素養にも優れ、その上礼節を重んじ、他人への思いやりが深いという典型的な鎌倉武士であり、武蔵武士の鑑として敬われた。幕府成立後は幕府の重鎮として頼朝の信頼は極飯能戦績3-6.jpgめて厚かった。しかし頼朝が亡くなると、彼の人望を妬む北条時政の謀略により、元久2年(1205)秩父からわずか134騎ばかりの郎党をつれて鎌倉入りするところを、二俣川を望む鶴ヶ峰で北条氏の大軍に包囲され奮戦の末討死した。武蔵の名族畠山氏は滅亡したが、彼の人柄を惜しむ人々は多く、多くの重忠伝説が生まれた。そんな伝説のひとつがこの飯能にある。即ち重忠の亡骸を二俣川から故郷の秩父に移そうとして飯能まで来たところ、この坂道で車が動かなくなってしまった。重忠が鎌倉を懐かしんだのであろう。そんなことから「見返り坂」の名が生まれ、この先の名栗川の河畔には「伝畠山重忠墓」と伝えられる板碑が残されている。
 見返り坂を南へ下ると程なく先の能仁寺門前の通りの西約100m足らずの所に出る。 これより「伝畠山重忠墓」と言われる板碑の所在地を訪ねる。通飯能戦争4-3.jpgりに沿って西へ進む。飯能西中を左にやると沢に架かる橋があり、橋の袂にはデイサービスセンター「サンタの森」の建屋がある。橋を渡って左折し南へ向かう。程なく左に入る細い路地を採り飯能西中の外縁に沿って回り込み東西に走る街路に入る。すぐ右手に大六天神社の案内が目に入る。案内に従い民家の庭先の様な路地に入ると赤い鳥居の前に来る。ここが大六天神社だ。鳥居をくぐると10m先に大きな樫の大木があり、その根元に小さな祠が建つ。大木の裏側に回ると2枚の大きな板石塔婆が根っこに支えられて立っている。ここが伝畠山重忠墓とされている所だ。傍らの由緒書によれば、板石塔婆は高さ地上1.5m、幅56cm、厚さ14cmで 阿弥陀三尊の他は銘も年号もないが、鎌倉期のものと推定されている。伝説では畠山重忠の遺骸を二俣川より秩父に移そうとして車返しの坂に差しかかった時、たまたま 車が動かなくなったので、従者は重忠の霊がそうさせたのであろうと察して、ここに 葬ったと伝えられている。但し史実では亡くなった二俣川の地に葬られているので、 これは伝説であろうと言われている。樫は白樫で目通り5.2m、根元8.3mで、2基の塔婆とともに市の指定文化財になっている。
飯能戦争4-4.jpg 次いで飯能河原へ向かう。先の飯能西中の南を沿う道を進む。ゆっくりとした下り坂となり程なく河原に沿う車道に合流する。合流点にはバス停「岩根橋」がある。車道をそのまま斜めに横切り河原へ向かって下って行く路地に入る。辺りは急にしっとりと落ち着いた鄙びた風情に変貌する。沿道左に松葉庚申と記した小さな庚申堂が建つ。堂内には高さ50cmほどの青面金剛を刻んだ石塔が祀られている。やがて右手に名栗川(入間川上流)が現れる。川沿いを更に進んで昔筏宿であったという橋本屋という食堂を過ぎると川筋は大きく右へ蛇行し、そこに広い砂地が広がっているのが見える。それが飯能河原だ。かつて名栗川を下って江戸へ向かう筏流しの中継地として栄えた。すなわち江戸時代から明治にかけて名栗で伐採された木材は名栗川、入間川、荒川を筏で下り千住で江戸深川の業者に売り渡した。江戸から遥か西の杣から来る材木と言うことで西川材と呼んだ。筏は名栗川上流の原市場の土場で組まれ、飯能河原まで4枚に筏師2人または1~2枚に1人で下った。これを山川と言った。飯能河原には筏宿がありここで1泊した。飯能河原から川越井草辺りまでは4枚を飯能戦争4-5.jpg筏師1人で下り、井草、福田、菅間、老袋辺りの筏宿で1泊した。井草からは筏を16~24枚 につなげ筏師2~3人、または8~12枚を筏師1人で流した。飯能河原から荒川の合流点までを下川と呼んだ。荒川本流は大川と呼び、2~3日かけて千住に到着した。名栗を出発してから千住まで通常は5日を要したという。なお飯能戦争では入間川沿いに進軍してきた新政府軍はこの飯能河原の対岸の大河原に大砲を据えて振武軍の陣地を砲撃したという。(この項つづく)  


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