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論語 №127 [心の小径]

三九九 子貢、問いていわく、一言にして此て身を終うるまでこれを行うべき者ありや。子のたまわく、それ恕(じょ)か。己の欲せざる所人に施すなかれ。

       法学者  穂積重遠


 「恕」は孔子様のきまり文句の一つだが(八一)、文字を見ても「心」と「如」とを合せたもので、他人の心も己の心のごとくなるべしと思いやることである。「己の欲せざる所」の格言は既に前にも出ており(二八〇)、そこで説明した。

 子貴が「ただ一言で一生の行為の準則たり得るものがござりますか。」とおたずねしたら、孔子様がおっしゃるよう、「まず『恕』かな。恕は結局、自分がされたくないことを人にするな、ということじゃ。」

四〇〇 子のたまわく、われの人における、誰をか毀(そし)り誰をか誉(ほ)めん。もし誉むる所の者あらば、それ試むる所あるなり。斯(こ)の民や、三代の直動にして行く所以なり。

 「直道にして行う」とよむのが普通だが、道だから「ゆく」とよんでみた。

 孔子様がおっしゃるよう、「わしは人に対して、誰をそしり誰をほめようぞ。無責任にほめたりそしったりしない。もしわしがほめたならば、それは実際にその行いをためしてみた上のことじゃ。今日の人民は、ずいぶん悪いこともするが、元来昔の夏・般・周三代の純朴の民と同じくまっすぐな一本道を行く徳性をもっているのであって、それが横道にきれ込むのは必ずしもかれらの罪ばかりでなく、教育や政治にも責任があるのだから、めったにはめもそしりもできぬではないか。」

 古註にいわく、「今この人民も亦三代の民族なり。三代の時に在りては、皆邪悪の事を為さず、淳良(じゅんりょう)直通にして行いし所の者なり。而るに今時の民の古の如くならざるは、天の才を降(くだ)すしかく殊なるにあらず、皆政教風化の宜しきを失うに因りてしかるのみ。故にこの傷歎(しょうたん)あり。」

四〇一 子のたまわく、われ猶史(なおし)の文を闕(か)き、馬有る者は人に惜(お)し、これに乗らしむるに及べり。今は亡きかな。

 本章には疑問があるのであって、荻生徂徠も、「史の下もと闕文(けつぶん)あり。故に註するに「闕文」の二字を以てせり、後人伝写して誤りて本文に入れしなり。」といっている。あるいはそうかも知れぬが、ともかく一応読みかつ解してみた。「借」は古くは「貸」の意にも用いた。

 孔子様がおっしゃるよう、「昔は記録をつかさどる史官が、少しでも疑点があれば空白にしておいてなお十分調査した上おぎなったものであり、また馬の所有者は惜しげなく人に貸して乗らせたもので、わしの若いころにはまだその風がのこっていて見聞きもしたが、今ではその風習もなくなってしまった。一事が万事で、道義の低下、風俗の頽廃、なげかわしいことじゃ。」

四〇二 子のたまわく、巧言は徳を乱り、小を忍ばざればすなわち大謀を乱る。

 孔子様がおっしゃるよう、「言葉上手は道徳を害し、小堪忍ができぬと大事業が成らぬ。」

 「小忍びざれば」とよんで、小さな感情を断ち切れぬと、の意に解する人もある。

『新訳論語』講談社学術文庫


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