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現代の生老病死 №2 [心の小径]

現代の生老病死~引き延ばされる老・病・死と操作される生 

       立川市・光西寺  寿台順誠


1.四苦八苦 2


 次に「四苦八苦」に対する三つ目の疑問として、「生」「老」「病」「死」、それから「愛別離苦」「怨憎会苦」「求不得苦」「五蘊盛苦」は並列的に置かれているとは考えられないということがあります。私たちには「老・病・死」、或いは「貧・病・争」を加えてもよいですが、それらが「苦」であることはよくわかること、実感出来ることですね。しかし、だからと言って、一足飛びに「生」(生れてきたこと)自体も「苦」であるとは結論出来ないのではないでしょうか(2)。
 又、「愛別離苦」「怨憎会苦」「求不得苦」は具体的な「苦」ですから理解しやすいことですが、「五蘊盛苦」というのは一体何のことやらよく分からないのではないでしょうか。「五蘊」というのは「五つの集まり(構成要素)」という意味で、身体・肉体を意味する「色」と、苦・楽といった感受作用である「受」、対象とするものの姿かたちを想い描く表象作用(イマジネーション)である「想」、「こうしたい」とか「ああしたい」とかという意志の作用を示す「行」、識別・判断の作用である「識」という四つの心的作用でもって、人間存在とは何かを示す言葉です。つまり、人間とはこの「五蘊」から成り立っているものであるということです。そして、ここには人間とはこの五蘊が仮に和合して存在しているものにすぎないので、時が来れば又バラバラになっていく無常な存在である、永久不滅の霊魂などないという意味が含まれています。が、とにかく、そうした五蘊から盛んに起こってくる苦しみを「五蘊盛苦」という訳ですから、これはもう見るもの・聞くもの・やること・なすこと全て苦である、人間存在とは総じて苦であると言っているのに等しいのですね。ですから、四苦八苦の後の四苦についても、「愛別離苦」「怨憎会苦」「求不得苦」、それに「睦夫受苦」「愚慮弄苦」「世間縛苦」「増上慢苦」を加えてもよいのですが、そうした具体的な苦しみがいくつあっても、だから「人生は総じて苦である」(五蘊盛苦)という結論には至らないという問題があると思うのです。(3)
 このように、「老・病・死」が「苦」だからと言って、「生」まで「苦」だとは言えないのではないか、又、「愛別離苦」「怨憎会苦」「求不得苦」が「苦」であることは理解出来るが、だからと言って「五蘊盛苦」を実感するまでには至らないというのは、この「四苦八苦」ということがいわば科学的な真理として述べられたものではないということを示していると思います。つまり、経験論的・帰納法的に「老」「病」「死」や「愛別離苦」「怨憎会苦」「求不得苦」といった具体的な「苦」をいくら並べ立てても(たとえそこに「貧」「争」や「暁夫受苦」等の苦をいくら足しても)、「生れてきたこと自体が苦である」(生苦)、「人間存在は総じて苦である」(五蘊盛苦)ということを証明することは出来ないということです。ですから、「四苦八苦」は先ずお釈迦様(釈尊)の思想・哲学を説かれたものだと考えるべきだと思います。そして、私たちはこの人生において「老」「病」や「愛別離苦」等の具体的な苦しみの体験を重ねるうちに、やがてお釈迦様が説かれたことはやはり真実に違いない、だからそれを信ずるといういわば「信仰上の飛躍」を通して「生苦」や「五蘊盛苦」といった究極的な苦を認識することに至るのだと思います。そして、お釈迦様が説かれたことだからこそ、それを真実であると信ずる者を「仏教徒」と呼ぶのではないでしょうか。

(2)「生老病死」の「生」に、「生れること」に加えて「生きること」という意味を読み込み、「生苦」を「生活苦」「生存苦」と解することもできないわけではないかもしれない。但し、仏教における「生」はサンスクリット語の“jatii”、“janman”等に対応する語で、第一義的には「生れること」「生ずること」を意味し、十二因縁で言えばその第十一支として第十二支の「老死」を導くものだという説明が一般になされている(『岩波仏教辞典第二版』2002)。十二因縁とは、「①無明(無知)→ ②行(潜在的形成力)→ ③識(識別作用)→ ④名色(名称と形態)→ ⑤六処(六人・六つの領域、眼耳鼻舌身意の六感官)→ ⑥触(接触)一 ⑦受(感受作用)→ ⑧愛(渇愛、妄執)→ ⑨取(執着)→ ⑩有(生存)→ ⑪生(生まれること)→ ⑱老死(老い死にゆくこと)」という十二の支分の因果関係によって示される仏教の基本的な考え方である。確かに、「生」には「転じて、生存することをもいう」(前記『岩波仏教辞典』)とか,「輪廻の生存。生きること」(『広説儒教語大辞典中巻』東京書籍,2001)の意味もあるとかと言われているが、私は「生老病死」の「生」の意味はそこまで拡大しない方がよいと思っている。というのは、「生老病死の苦」に「生活苦」や「生存苦」を読み込む場合には、十二因縁で言えば第十二支(上記の「⑫老死」)の方に読み込む方が各支分間の因果関係が明確になると思うからである。十二因縁の第十二支には「老死」しか挙げられていないけれども、ここには当然、四苦(「生老病死」)の「病」も含まれると解せるし、さらに「生れること」(「⑪生」)によって引き起こされるあらゆる「生活苦」「生存苦」(例えば貧病争)も含まれると解してよいのではないかと思うのである

(3)「罪悪深重・煩悩熾盛の衆生」(『欺異抄』1条,『真宗聖典』東本願寺出版部1995東本願寺出版部1995以下同626頁、『浄土真宗聖典一一註釈版第二版一一』本願寺出版社,2004,831頁)、「煩悩具足の凡夫」(『欺異抄』9条、後序、同前837頁,853頁)や「「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおはく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおはくひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえず」(『一念多念文意』,同前693頁)として示される浄土真宗の人間観が、「五蘊」によって示される仏教の基本的な人間観とどう関係するかは大変興味深い問題であり、すべての真宗者が問うべき課題だと言えるであろう。私は上記『一念多念文意』の言葉からは、まさしく「無明」(前注2の十二因縁の「①無明」)と「煩悩」(同前「⑧愛」)によって「欲」「いかり」等が生み出され、しかもそれが「苦」として認識されていることが窺えるので、この言葉は「五蘊盛苦」の親鸞的な表現だと言えるように思う0但し、『歎異抄』について言えば,「罪悪深重・煩悩熾盛の衆生」等の人間観が「本願ぼこり」「造悪無碍」を肯定する文脈に置かれることによって、人間のそうしたあり方を「苦」と認識して厭い棄てようとしているとも読めなくなるという問題があるであろう。そしてその場合には、「五蘊盛苦」の認識とは相容れないものになると思われる。

名古屋市中川区 真宗大谷派・正雲寺の公開講座より



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