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西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い」 №65 [文芸美術の森]

          歌川広重≪名所江戸百景シリーズ
           美術ジャーナリスト 斎藤陽一
           第16回 「亀戸梅屋舗」

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≪臥龍梅の存在感≫

 広重が晩年に取り組んだ連作「名所江戸百景」はすべて「竪型(たてがた)・大判錦絵」なので、前回述べた「近接拡大」・「切断」画法を用いた図が多数あります。
 この「亀戸梅屋舗」(第30景)もそのひとつです。

 この絵に描かれている場所は、本所の呉服商・伊勢屋彦右衛門の別荘「清香園」で、邸内に梅林があったところから「梅屋舗」と呼ばれていました。梅林は公開されていたようで、梅の花咲く季節には大勢の人でにぎわったと言います。
 とりわけ人気があったのが「臥龍梅:がりゅうばい」と呼ばれた老木。曲がりくねって、地を這うようなかたちが龍を思わせるところからこの名がつきました。老木とは言え、枝いっぱいに薄紅色をした花を咲かせ、その香りも格別によかったので、この梅林の名物木となっていました。広重は、絵の左上に「臥龍梅」を示す立て札をちらっと描いています。

 広重は、その「臥龍梅」の幹と枝とを思い切ったクローズアップでとらえ、その左右を切断するという大胆な構図によって、名木の存在感を強調し、さらに、その向こうの梅林と観梅の人たちを描いた遠景との対比を際立たせています。風景画には向かないとされた「竪型」を逆手にとって、得意の「近接拡大」「切断」画法により、鮮やかな絵画世界を創りだしたのです。

≪ゴッホを魅了した絵≫

 色使いもまた鮮烈です。臥龍梅の姿は墨をつかってシルエットにし、地面は緑色、空には赤いぼかしを使っています。おそらく夕方に近づく頃の色彩の美しさを表現したのでしょうが、物の固有色を無視した大胆な彩色です。さらに、赤と緑は補色同士ですから、これを並べることで、私たちの目にはより鮮やかに映ります。色彩学で「補色対比」と呼ばれるものですね。

 構図、彩色ともに強いインパクトを与えるこの絵に感動したのが、フィンセント・ファン・ゴッホ(1853~1890)です。

 27歳で画家になることを決意したゴッホは、当初、オランダやベルギーを転々としていた時期には、暗く黒っぽい絵を描いていました。ところが、32歳の時に、パリにいた弟を頼ってこの近代都市に出てきた途端に、その65-2.jpg絵は明るく鮮やかなものとなりました。それは、ひとつには印象派の画家たちと交流するようになったこと、二つ目は、日本の浮世絵と出会い、魅了されたことによります。

 日本から輸入された浮世絵が一万枚も収蔵されていたという画商サミュエル・ビングの画廊の屋根裏部屋に通い、熱心に研究するだけでなく、自分でも浮世絵を収集するようになります。
そして、自分が感銘を受けた浮世絵作品を油絵具を使って模写する、ということもやりました。現在、3点の模写が残っていますが、その中のひとつが広重の「亀戸梅屋舗」を模写したものです。

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 広重の原作とゴッホの模写を並べてみると、上図のとおりです。
 一見、構図は原作を忠実に写したかのように見えますが、空の赤も大地の緑色もはるかに強く激しい色調になっています。梅の木の太い幹も、屈折した描線でぐいぐいと描いている。あたかも、原作に触発され、それを触媒として、自分の激しい感情をぶつけているかのような強い絵になっています。ゴッホが、浮世絵の力を借りながら、より主観的な表現に踏み込んだことを示しています。
 とすると、ゴッホのこの絵は、単なる「模写」を超えたものであり、浮世絵を媒体として独自の絵画世界を創り出したもの、とも言えるでしょう。

 27歳という遅い年齢で、ほとんど独学によって画家になったゴッホですが、やはり西洋十九世紀の画家であるかぎり、西洋古典主義の規範である合理性や理想美の追求という呪縛から解放されることはなかなか難しかった。それを、西洋絵画とはまったく異質な浮世絵の姿と特質を借りることで、私たちがよく知るこの後のゴッホに脱皮することができたのです。

 ついでながら、ゴッホの模写作品の左右には、広重の原作にはない文字が書かれていますね。「新吉原」とか「大黒屋錦木江戸町一丁目」などと読めますが、ゴッホは、他の浮世絵から文字だけを借用して、ここに装飾的に配したものと思われます。
この後のゴッホは、浮世絵を通して「光あふれる日本」そのものへの憧れが高まり、ついに「日本に近い光がある」と思い込んだ南仏アルルに移ることになります。

 広重晩年の連作「名所江戸百景」には、ゴッホがこのとき模写したもうひとつの絵「大はし・あたけの夕立」があります。次回は、この絵を取り上げます。



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