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じゃがいもころんだⅡ №56 [雑木林の四季]

パラリンピック

          エッセイスト  仲村一枝

 パラリンピックの映像を見ていて、私はしばらく忘れていた人のことを思い出した。
  Kさん。彼女に初めて逢ったのは、私が五、六歳、彼女が十三、四歳くらいだったと思う。家にやってくると、風呂敷から、当地のおみやげと思しき、郷土色豊かなものを取り出してくれた。今のように物流豊かな時代ではないから、珍しい、地方色豊かなものが多かった。
 そのうち、Kさんが家にくるのは、お金が必要になるときらしいことが子ども心にも分かった。私の母はいつもKさんにやさしく応対し、帰りには風呂敷にお菓子やお土産を包んで帰していた。母の親切はうわべだけでなく、心から、こんな小さな子に・・という思いが沿っていて、私はKさんはきっといい人なんだと思っていた。ちょっと発音が普通の人と違っていたり、体つきも小さくて、普通のお姉さんよりぎくしゃくはしているが、私はなんとなく、この人はいい人だと思い込んで育った。
 Kさんの実家は熊本で、彼女のお父さんと私の父が同じ文学仲間であることはずっとあとで知った。お父さんは私の父同様、お酒の好きな人で、いい人らしかったが、お母さんは少し病的に神経質で、ちょっと変わった人らしい。そのうち、Kさん自身が、口に障害があることも分かった。私などは馴れると余り気にならなかったが、人によっては嫌な顔をする人もいた。それでもKさんは明るくあっけらかんで、親しくなると冗談も言う。私は彼女と接していて特に嫌な思いをしたことはない。けらけらよく笑い、そしてしゃべった。Kさんとの付き合いは何年も続いた。
 思えば今から五十年以上も前のはなしである。あの時代に障害を持って生まれ、それほど豊でない家庭環境で、どんなに辛い思いをしただろうと、ふと思うことがある。それらすべてを乗り越えて彼女は大らかに明るく生きていた。文章を書くことも短歌も上手で、私と友だち3人で回し読みの雑誌を作ったりもした。
 今、彼女が生きていたら、こういう時代になったことをどんな風に語るか、きいてみたい。今でこそ、誰もがさして気にしなくなったが、二十年前くらいまでは状況はまったく違っていた。あの時代、障害を持って生まれることそのものが不幸だった。更に裕福な環境でないことも大きく影響を与えたに違いない。彼女は、今思うと、頭のいい人であったから、もっと勉強もしたかっただろう、いろいろ経験もしたかっただろうに、どれも家庭の事情で断念したのだった。そんな中で彼女が明るく大らかに生きられたのは、やはり、彼女の持つ個性でしかない。
  パラリンピックを見ていると、障害をもっていても、今では努力と周囲の環境で変えていくことが可能になったのを感じる。以前できなかったことが出来るようになった。不自由な体の人に目をそむけたり邪念を持つ人は、多分これでずっと少なくなる。
 パラリンピックはある意味、人間の可能性と人間のすばらしさを私たちに教えてくれたのだった。


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