SSブログ

多摩のむかし道と伝説の旅 №67 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

        多摩のむかし道と伝説の旅
    -渋沢一族が主導した飯能戦争の戦跡を巡る-3

            原田観爾

飯能戦績3-1.jpg 智観寺を後に次に能仁寺に向かう。門前の街路を西に進み再び太い車道を横切り、南へ向かう狭い街路に入る。西武池袋線ガードをくぐり道なりに進むと「第一小学校裏」の道標の架かる変形四差路に出る。交差点の一角には鶴舞地蔵尊と称する小さな地蔵堂がある。交差点から飯能第一小の北側に沿う真っ直ぐな道を西へ向かう。前方右手に望む山はこれより向かう能仁寺の裏山の天覧山(羅漢山)であろう。振武軍の本陣能仁寺に対し、新政府軍はこの小学校付近に200丁の大砲小銃を据えて攻撃したという。程なく太い南北に走る車道との交差点に来る。交差点の北西角地に「能仁寺東参道入口」と「天覧山入口」と記した案内板が立っている。案内板の裏手は池のある瀟洒な庭園になっている。とりあえず案内板は無視して、そのまま大通りを西へ向かう。沿道左手は緑の多い広い敷地で飯能市市民会館が建っている。程なく南からの中央公園通りが丁飯能戦績3-2.jpg字路でぶつかる所まで来ると、そこが飯能有数の大寺能仁寺の山門前となる。山門を抜け中雀門をくぐると横に長くて広い境内が現れる。その正面に本堂と開山堂、左に鐘楼、右手に庫裡がある。能仁寺は曹洞宗の寺で山号を武陽山と号す。文亀年間(1501~1504)中山家勝により創建された。天正19年(1591)徳川家康より五石の朱印地を与えられた。五代将軍綱吉の時、家勝から四代目の中山直張の子の直重は黒田家の養子となって、綱吉の小姓となり50石に加増され、黒田家は能仁寺を菩提寺とした。背後に天覧山や多峰山を控え、地の利がいいことから、慶応4年5月23日 (1868)の飯能戦争では振武軍の本陣となり170人程が立て籠もったため、砲撃に晒され伽藍は焼失した。現本堂は昭和11年(1936)に再建された。
 能仁寺を出て裏山の天覧山に向かう。元は羅漢山と言った。明治16年、飯能で近衛諸兵対抗演習があり、その際、戦況を視察するために明治天皇が羅漢山を登頂され御野立所となった。このことから羅漢山は天覧山と改称さ飯能戦績3-3.jpgれた。元来た道を戻り先の『天覧山入口』と記した案内板の所から入る。分岐点に来ると「能仁寺東参道」の石標柱を左にやり過ごし「天覧山登り口」の案内に従って右の分岐道を採る。天覧山の由来板を過ぎ、日清戦争から太平洋戦争までの戦没者を祀る忠霊塔を左にやり、大きく左へカーブしながら山道の登って行くと天覧山中段の広場に出る。広場の中央には「御駒繋松」と刻んだ石碑が立つ。明治天皇が乗馬されていた馬を繋いだことからこの名がある。分岐道を二つばかりやり過ごし更に天覧山山頂へと向かうと十六羅漢像を祀る岩場に来る。岩肌を巻く様に十六体の羅漢像が立つ。由緒書によると5代将軍徳川綱吉が重い病を患った折、生母桂昌院飯能戦績3-4.jpgは心配して飯能出身の大名黒田直邦に相談したところ、直邦は能仁寺の泰基和尚に病気平癒の祈願を勧めたので、和尚を江戸城に召し出し祈願してもらった。するとなんと病は治り健康を取り戻した。桂昌院は大変喜んで感謝の印に十六体の羅漢像を寄進した。以来羅漢山と呼ばれるようになったという。羅漢像を過ぎ岩場を通って上り詰めるとそこが標高195mの天覧山の山頂だ。山頂には明治45年4月建立の行幸記念碑が、また南側には展望台がある。展望台からは飯能の市街から関東平野や秩父の山並みを180度見渡すことができる。能仁寺に詰めた振武軍はここに望楼を設けて新政府軍の動静を監視したことであろう。(この項つづく)


nice!(1)  コメント(0) 

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。