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現代の生老病死 №1 [心の小径]

現代の生老病死~引き延ばされる老・病・死と操作される生

         立川市・光西寺  寿台順誠

 はじめに

 皆さま、「百とやっとかめ」だなも。
 前回(1月21日の「批判的に読み解く『歎異抄』」の2回目の話の時)、「やっとかめ」の語源を説明しました。それは「八十日目(やっとうかめ)」ということで、「久しぶりですね」という意味でしたね。それで、考えますと前回からもう6か月たっていますので、今日は大体「百八十日目」ですね。だから「百とやっとかめ」というご挨拶をさせていただきました。
 さて、コロナ禍のこういう状況の中で皆さん非常にお困りのことも多いと思います。最近、暑くなってくるとマスクは大変ですね。苦しくなってきますよね。それで道を歩いていてしんどくなると、人がいないのを見計らってマスクを取りますね。そうすると何か凄く楽になります。大袈裟な言い方をしますと、「空気が美味しい」と思ったりします。当たり前にやっていたことが当たり前に出来なくなると、当たり前のことが非常に貴重なことだったと思ったりします。が、又、こういう時は、やはり当たり前にしてきたことをもう一度問い直すことが重要になってくるのではないかとも思います。

 1.四苦八苦

 そこで今日は、「生老病死」という問題を問い直してみようと思います。仏教では一言で「生老病死の苦がある」と言いますけれども、それは一体どういう意味なのだろうか。それを考えるために、先ず「四苦八苦」ということから話に入っていきたいと思います。
「四苦八苦」というと一般にもよく使う言葉で「大変な苦しみ」を指す言葉ですが、もともとは、「生老病死」という四つの苦しみに、「愛別離苦」(愛する人と別れる苦しみ)、「怨憎会苦」(嫌な人・憎たらしい人と一緒にいなくちゃいけない苦しみ)、「求不得苦」(求めるものを得られない苦しみ)、「五蘊盛苦(五陰盛苦)」-これは難しいので後で説明しますが-の四つを足して全部で八つですから「四苦八苦」と言う訳ですね(1)。これを一般的な国語辞典や仏教辞典で調べてみると、「人生の苦の総称」(『広辞苑 第七版』2018)或いは「人間のあらゆる苦しみ」(『大辞林 第四版』2019)を表現したものであるとか、又そうした「苦しみを四つあるいは八つに分類したもの」(『岩波仏教辞典 第二版』2002)であるとかと説明してあります。しかし、私はこうした説明に対して二つの疑問を持っています。一つは、「人間のあらゆる苦しみ」と言う訳ですが、人の苦しみというのはたったこの四つないし八つなのかということです。それから、もう一つは、「四つあるいは八つに分類したもの」と言うと、何か「生」「老」「病」「死」ないし「愛別離苦」「怨憎会苦」「求不得苦」「五蘊盛苦」は、各々同じ重みを持って並列的に置かれている感じがしますが、本当にそうなのだろうかという疑問です。
 最初の疑問については、例えば「生・老・病・死」の他に「貧・病・争」といった苦しみも挙げられると思います。これは幕末から戦前・戦後にかけて所謂「新興宗教」(新宗教)が勢力を拡張する時に、これらの問題に取り組んだということが言われるもののカタログです。「生老病死」にも「貧病争」にも「病」が入っていますが、前者が人として生まれた以上、免れ難いものとしてある「病」を指すのに対して、後者はむしろ治すべき「病気」、解消すべきものという違いがあると思います。「貧」や「争」も解消すべき、解決すべきものとして取り組まれたということだと思いますが、それと同じように「貧病争」という場合の「病」は、社会問題として挙げられているのだと思いますね。昨日、こちらの法務員研修会にも参加させていただきましたが、そこでのテーマは「現世利益」でした。よく新興宗教は現世利益を説くと言われるのですが、それはこうした問題と取り組んだということではないでしょうか。
 又、今年の1月から東京12チャンネル系で夜中に『コタキ兄弟と四苦八苦』という12回連続のドラマを放送していたのですが、そこでは各回のドラマのタイトルとして上記の八苦以外に、「曠夫受苦」(配偶者がいない男性が受ける苦しみ)、「愚慮弄苦」(くだらないこと・とろくさいことを考えちゃって、自分で自分の思いに翻弄される苦しみ)、「世間縛苦」(世間の価値観に縛られる苦しみ)、「増上慢苦」(尊大になって却ってしくじっちゃう苦しみ)、という四つの苦しみが出されていました。このように四苦八苦以外にも、いろいろな苦しみがあると言える訳ですね。

註1) 釈尊の説法の中で「生老病死の苦」は随所で語られているが、典型的な形で「四苦八苦」に相当することが語られているのは、次の部分ではないかと思われる。「さて、ところで、比丘たちよ、苦の聖諦とはこれである。いわく、生は苦である。老は苦である。病は苦である。死は苦である。欺き・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みは苦である。怨憎するものに遭うは苦である。愛するものと別離するは苦である。求めて得ざるは苦である。総じていえば、この人間の存在を構成するものはすべて苦である。」(増谷文雄編訳『阿含経典2』ちくま学芸文庫,2012,284頁)

名古屋市中川区 真宗大谷派・正雲寺の公開講座より




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