SSブログ

海の見る夢 №13 [雑木林の四季]

         海の見る夢 
            -あめのきさき~カトリック聖歌ー
                   澁澤京子

  ・・・年齢は必ず美を破壊するものではない。年を取るほど美しくなる人々がいる。・・『アート・スピリット』ロバート・ヘンライ

人に直接会ってみないと決してわからないのは、その人が持っている全体の雰囲気だろう。昔、クリーニング屋でパートを始めた時、最初の上司が「僕はお店に長いからね、お客さんが入ってきた瞬間、ワイシャツを引き取りに来たのか、スーツなのかだいたい品物がわかる。」と自慢していた。お客さんが何を引き取りに来たのかは、いまだに分からないけど、問題のあるお客さんは、お店に入ってきた時の空気で、なんとなくわかるようになってきた。

クリーニング屋で働いていると、思いがけず、人の裏の顔を見てしまうことがある。クレームをつけて賠償金を請求したり、嫌がらせをする人は少なくない・・
刺々しい冷たい雰囲気を持っていたり、不自然な感じ、なんとなく澱んだ空気を持つお客さんは、後でしつこく嫌がらせをするような、トラブルを起こす問題のある人が多い。

黙ってむっつりした、一見怖い顔でも、優しいお客さんはいるのであって、人って顔の表情よりも、むしろ持っている雰囲気の方がその人が良く現れる。いいお客さんは、オープンで明るく、風通しのいい雰囲気を持っている。

人は、自分で思っている以上に、心の状態がその人の雰囲気としてにじみでてくる。心は音楽みたいに、黙っていても自然に流れて出てくるものかもしれない。善良な人、頭のいい人は、サラサラ流れるこだわりのない感じと、温かい品の良さを持っているのである。

男も女も、年を取れば取るほど、性格や心がその人の雰囲気として外側に露わになってくるような気がする。私の知っている、年齢を重ねてますます美しい女性は、やはりシスター・キャサリンだろう。

私はプロテスタントの学校にいたので、マリア信仰というものがよくわからなかったけど、シスター・キャサリンに会ってから、なぜマリア信仰があるのか何となくわかるような気持ちになってきた。女性の持つ柔らかでおおらかな優しさ。そして何より、男でも女でも、母親との関係はとても重要なのだ・・特に母親を亡くしてからそう考えるようになってきた。

ある独参の時、シスター・キャサリンが、「私は今でも毎日、エゴイズムと格闘しています、エゴイズムほど厄介なものはないのです。」と仰った。彼女のような人もエゴと格闘しているのだ。彼女の持っている、清らかで優しい雰囲気は、毎日、利他的な活動に奔走し、祈りと、坐禅と、そうした日々の厳しい修行と自身のエゴとの格闘のたまものだったのだ・・とても一朝一夕で真似出来るようなものじゃないのである。おそらく、心がきれいに浄化されればされるほど、普通の人だったら気にもしないような、自身の些細なエゴイズムも敏感に見つけることができるのだろう。

キリスト教の「従順」は、受動的な権力への服従とは違う。権力への服従には、賞罰が伴い、損得や自己保存本能が働くが、キリスト教の「従順」はそうした世俗の欲望、エゴイズムをむしろ捨てるためにあるのであって、逆に自分の意志(主体性)が強くないとなかなか難しいだろう、ふつうより困難な道を歩むからだ。主体性のない、権力に対する受動的な服従と、自分の強い意志による、主体性のある従順は全く違うものなのである。

シスター・キャサリンは、彼女の持っている雰囲気全体がとても品が好くて美しい。女としてというより、その人間性が優れているのである。彼女が部屋にいると、まるでお花があるような新鮮な空気が漂うし、彼女の周りには目に見えない愛の粒子が漂っていて、それに触れた人はみんな、なんともいえない清らかな優しい気持ちになるのだ。

彼女の持つ、明るく軽やかな雰囲気は、無意識の底からにじみ出てくる、輝くような光なのである。おそらく誰もが心の底に同じ光を持っている。それを曇らせてしまうか、輝かせて周囲を照らすかは、その人次第なのだと思う。

人はなぜ他の人の心を感じることができるのだろうか?たとえば、犬は喜ぶと尻尾を振ってくるくる回ったり跳ねたりする、人は喜んでもそういう行為はしないが、犬の喜びは私たちにも小さい子供にもひしひしと伝わるではないか。というか、小さい子供や動物の方が、心という見えないものが、大人より伝わりやすいのかもしれない。

たとえば、画集で見るのと実際に見る絵は違う。ミレーの『晩鐘』は、画集でしか知らなかったときは全く興味のない絵だったけど、本物を見た時は圧倒された。小さな絵だけどそれが飾ってある場所だけガラッと違う雰囲気で、明らかに祈りのような静謐で温かな空気が辺りに充満していたのである。ポロックもそうで、画集で見た時はポロックには興味なかったけど本物を見た時には圧倒された。上野のMOMA展に連れて行った、下の息子(当時幼稚園)が、口を開けたままその前でしばらく身動きできなかったほど、その絵の周辺だけ静かな音楽に満ちていたのだった。

芸術は人の心を直接伝えることができる。

・・・人間の心の中にある神の真理そのものを消滅させようとする誘惑
   善悪を識別する良心の欠乏、聖霊に敵対するもろもろの罪から
   主よ、私たちをお救いください   ~聖ヨハネ・パウロ二世の祈り

コロナでリモートワークが当たり前になり、ズーム会議やズーム飲み会も普通の事になった。(私は毎晩ズーム坐禅会に出席しているが)人間関係はSNSがあればいいという人と、人にはやはり直接会いたい人とおおざっぱにわけられるとしたら、私はもちろん後者で、人には直接会いたい。

人とのコミュニケーションは何を話したかとかそれだけではなく、その日の気分とか天気とか、何を一緒に食べたかとか、一緒に過ごした場所とか、そういう全体が実はすごく重要だと思っている。つまり、人とは黙って一緒にいるだけでも、心と心は音楽のように流れてコミュニケーションするのであり、言葉のコミュニケーションに頼りすぎると、そうした静かな音楽をキャッチする感受性は衰えてゆくような気がするのである。

SNSやスマホなど、コミュニケーションのツールの発達により、私たちは本当の孤独も、沈黙もなかなか持てない時代を生きている。孤独も沈黙も、感受性を養うすごく大切な時間なのに。

一体何が真実で何が虚構なのかもわからない、SNSの記号とイメージの情報の洪水。

安全な場所で椅子に腰かけたままボタンとリモコン操作一つでたくさんの人を殺せる無人機にはゾッとするけど、それは身体感覚を喪失して行く私たちの社会が作ったものなのだ。

倫理は、身体感覚・皮膚感覚ととても関係があると思うし、理不尽な社会に対する疑問も、そうした感覚や感情がベースになっている。そしてそれは、芸術や文学と深い関係があると思う。文学も芸術も、倫理と同じで正解というものはなくて、自分で感じて、疑問を持ったり考えないといけないところがある。そうした正解のない芸術や文学が、どんどん正当な居場所をなくしているのは、それらが社会には直接役に立たないものだからだろうか?

思考能力と感受性の欠如の対極にあるのが、芸術・文学なのである。権力に服従するのが美徳の時代に、政治や社会に疑問を持たなければ、ギリシャ悲劇の『アンティゴネ』は決して生まれなかっただろう。疑問を持つのは、人間が主体性を持つ素晴らしい存在だからだ。

今はクイズ東大王が「知力」「最強頭脳」と言われる時代。昔、友人が受験勉強はクイズのようで、暗記さえすれば誰でもできる問題が多いのでレベルが低い、と教えてくれたのだが・・あらかじめ、答の決まっているクイズの正解が出せるのが「知力」なんだろうか?「知力」とは知識ではなく自分で考える力じゃないだろうか。

思考能力と感受性、他人の苦しみへの想像力の欠如した人間が増えているような気がする。

サールの有名な「中国人の部屋」というA1批判では、ある部屋に、中国語を指示に従えば中国語を翻訳できるマニュアルを置いておく。そうするとマニュアル通りの指示に従えば、中国語の意味をまったく理解できなくとも翻訳ができる。そのように、意味がわからなくとも、あたかも中国語ができるふりができるのが、A1なのである。A1には人間の「わかる」や「腑に落ちる」と言う経験はできない。人が試行錯誤して「考える」のは経験なのであって、それが人の主体性となっていくのじゃないだろうか・・A1は、情報処理能力は高いけど、志向性をもてない。つまり人間らしさとは、感受性と思考能力、懐疑精神、成熟した判断力と意志、そうした主体性を持つことじゃないだろうか。

子供の時、金の好きな王様ミダス王の話を読んだことがある。金が好きな王様は魔法使いに頼み、触るとなんでも金に変えることができるようになる。最初は触ると何でも輝く金になるので喜ぶが、お腹が空いても触ったパンが金になって食べることもできなくなり、愛するお姫様も触った途端に冷たい金になってしまうというミダス王の悲劇。

SNSはコミュニケーションにはとても便利なツールだけど、そうした便利と功利主義、わかりやすさと効率主義、そして見せかけにこだわる虚栄の社会は、人から感受性と思考能力を奪い、ミダス王のような、生のリアリティの欠如した、つまり主体性を持たない人間をどんどん作ってゆくのではないだろうか?と時々、危機感を感じるのである。


nice!(1)  コメント(0) 

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。