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西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い」 №63 [文芸美術の森]

           歌川広重≪名所江戸百景≫シリーズ
          美術ジャーナリスト  斎藤陽一

          第14回 「日本橋雪晴」

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≪広重最晩年の名作シリーズ≫

 安政3年(1856年)、歌川広重(1797~1858)60歳の時、自分がこよなく愛した江戸をテーマに、連作「名所江戸百景」の制作にとりかかりました。すべて縦長の大判サイズの錦絵(彩色版画)で、安政5年(1858年)に広重が62歳で世を去るまで刊行が続き、全部で119点(うち1点は二代広重画)のシリーズとなりました。江戸の町をこれまでにない新しい視点と卓抜な構図で描いたこの連作は、最晩年の名作と言われます。広重作品の中でも、とりわけこのシリーズは印象派など西洋近代絵画に大きな影響を与えました。
 
63-2.jpg これから数回にわたって、このシリーズの中からいくつかの絵を選んで紹介していきますが、その前に、「名所江戸百景」の刊行が始まった安政3年の前の年、すなわち安政2年10月に江戸を襲った巨大地震「安政大地震」のことを知っておく必要があります。

≪安政大地震≫

63-3.jpg 安政2年(1855年)10月2日午後10時頃、江戸をマグニチュード7という直下型の地震が襲いました。震源地は江戸湾付近とされています。倒壊家屋は約15,000棟、同時に各所で発生した火災により、江戸の町は壊滅的な被害を受けました。死者は7,000人以上との記録はありますが、武家屋敷からの報告は不明なので、実際にははるかに多数の死者が出たものと思われます。
 その上、翌・安政3年3月には、大きな洪水が江戸を襲い、甚大な被害をもたらしました。相次ぐ大災害によって、それまで広重が愛情込めて描いてきた江戸の姿が忽然と崩壊してしまったのです。

 「江戸名所百景」の刊行が始まったのは、その直後からです。まだ災害の現状が生々しく残る中で、再建の槌音があちこちで聞こえてくる時期でした。
 このような状況を考えれば、連作「名所江戸百景」には、広重の江戸の復興を願う気持ち、あるいは、復興しつつあることを喜ぶ気持ちなどが反映していると見てもいいのではないでしょうか。

≪雪晴の日本橋≫

 その冒頭を飾るのが「日本橋雪晴」(第1景)。
 「東海道五十三次」(36~37歳制作)の冒頭を飾ったのも「日本橋」でした。江戸の復興を祈る気持ちを込めた晩年の「名所江戸百景」(60~62歳)の最初の絵としてもふさわしい画題でしょう。

 それまで風景画(「名所絵」)と言えば、横長の紙に風景のひろがりを描くのが定番でした。「東海道五十三次」も横型でしたね。それを広重は、このシリーズ全ての絵を「竪型(縦型)」で表現しようと試みたのです。
「竪型」では、風景の横の広がりを描くことはできませんから、思い切って描く対象の左右を切断し、大胆な省略を行なって最も効果的な部分で構成する必要があります。その分、上手くいけば絵が与えるインパクトは強いものとなります。広重はそれをねらい、成功したのです。

 シリーズの冒頭を飾るこの絵では、雪に覆われた江戸の町を「鳥の目視点」(俯瞰構図)でとらえています。一見すると、ここには大胆なクローズアップや切断は見られません。
「前景」に日本橋と隅田川を、「中景」に江戸城、「遠景」に富士山を配した構図は、幕開けの最初の絵ということもあって、よくある定番通りの江戸風景図のようにも見えます。
しかし、すぐに、この絵の鮮やかさに気づきます。
左右の広がりをばっさりと切断して、日本橋と江戸の町並、江戸城、富士山を積み重なるように描いています。それにより、この絵は、横長に描いた図に比べて、モチーフがより凝縮したかたちで提示され、訴求力のあるものとなっています。

63-4.jpg 広重がこの絵に着手した時には、まだ江戸の町はこのような姿ではなかったと思います。
 広重は、江戸復興への祈りを込めて、晴れやかな雪晴の下に軒を連ねる家々や、日本橋を行き交う大勢の人々、川面に浮かぶ沢山の船などを描いたものと思われます。 右下には魚河岸の賑わいが描かれています。まことに気分が晴れやかになる幕開けの一枚です。
 この絵では、「赤と白」が効果的に使われていることにも注目を。「めでたさ」を象徴する「紅白」が暗示されます

 次回は、「名所江戸百景」の中から「浅草金龍山」を紹介します。


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