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海の見る夢 №12 [雑木林の四季]

       海の見る夢
        ―That’s amore-
                                 澁澤京子

  苦しみの事で間違えたためしはない、
  昔の大画家たちは。彼等はその人間的位置を
  知り抜いていたのだ。誰かが苦しんでいる時にも
  他人はものを食べたり窓を開けたりのろのろ歩いていたりする。
                          『美術館』W.H.オーデン


シモーヌ・ヴェイユは、遠い海の向こうの戦地の悲惨な記事を読んだだけで食事ができなくなるような、極めて繊細な感受性の持ち主だったと言われている。テレビの夕方のニュース、交通事故だの災害だの悲惨なニュースを見ながら平気で夕食を食べることができる私たちの方が鈍感なのかもしれない、と時々思う。

ボーヴォワールはシモーヌ・ヴェイユのその鋭い感性をとても羨ましがった。本当の「感性のよさ」とはもしかしたら、ヴェイユのような感受性をいうのかもしれない。
あまりにも敏感すぎた彼女が早逝したのも無理はないと思う。ある程度他人に鈍感にならないと私たちは生きていけないからだ。そして、そうした他人の感覚・感情に鈍感になることによってどんどん失われていくものがあるとしたら、それは、生のリアリティではないだろうか。

オーデンの詩にあるのは、苦しんでいる人の苦しみと同時に、苦しんでいる人がいて同時に笑ったり、ものを食べる人がいるような、この世界の理不尽だろう。
人が基本的に、他人に無関心のまま存在するようなこの世界だろう。

・・・世界が距離を克服し、様々な考えを大気に乗せて伝播するようになれば、世界はもっともっと一体化され、もっともっと兄弟愛に満ちた社会に結ばれると考える人たちがいる。しかし悲しいかな、このような結合があると信じてはならない。・・・『パフォーマンスとメディア』グレン・グールド

このグールドの言葉は、芸術家の鋭い直観による、今日のバーチャルなコミュニティ社会に対する予言のようにも見える。人との接触を恐れたグールドにとって今日のSNSの仮想現実のコミュニティ社会は、一見好ましい空間のように思えるけど果たしてどうだろうか?SNSでは「いいね」を多く獲得するのが善いとされ、集団同調や意見の画一性が起こりやすくなっている。グローバルに開かれているようで閉鎖的なSNSのコミュニティでは、顔の見えない匿名性による書き込みが多くて信頼関係が育たない為に、集団同調や意見の画一性が起こりやすくなるのだろう。グールドが、SNSのそういう現象を見たら、嫌悪するのじゃないだろうか。

奇行で有名で、ひきこもりの生活を送ったグールド。人と接触することを恐れ、他人の感情に無関心だったとも言われているけど、グールドは子供時代、魚釣りのボートで、自分の釣った魚がもがき苦しむのを見て自分も同じように苦しみ泣き叫んだという。彼はシモーヌ・ヴェイユと同じように他者の痛みや苦しみに敏感で、共感能力がありすぎたために人との接触を避けて、孤独な生活を送ったのじゃないだろうか、と思ってしまう。グールドのピアノを聴いていると、人とのコミュニケーションを拒絶しているというより、むしろその反対に、とても深いコミュニケーションのできる人にしか見えないからだ。つまり、表層的な薄っぺらな人間関係を嫌い、もっと温かく生気に満ちた、人との深い関係を望んでいたのじゃないだろうか?彼は「生のリアリティ」を切実に求めていたんじゃないだろうか、という気がしてならないのである。

シモーヌ・ヴェイユやグールドのように感受性の鋭い人間にとって、この世界はとても生き辛い世界だろうと思う。

フロイトが言うように私たちには他人どころか自分自身のことすらよくわかっていない。わかっていないのに、私たちは一体どうしたらもっと生き易い世界に変えることができるだろうか?
・・・私たちの日常は欺瞞に満ちているという事です。私たちはいつも賞罰の論理の中で生きています。・・・『自由こそ治療だ!』フランコ・バザーリア

イタリアに、フランコ・バザーリアという、閉鎖的な精神病棟を開放した素晴らしい精神科医がいた。病棟を開放するだけではなく、患者たちと一緒に床張りのビジネスまで立ち上げるのである。バザーリアはまず、精神病棟の患者を拘束する規則と薬漬けの習慣と戦う事から始めた・・どんな精神病者とも根気強く対等に付き合っていくうちに彼等は次第にバザーリアに心を開いていき、人間らしい感情を取り戻していく。(バザーリアの精神病棟開放運動は『人生ここにあり(邦題)』と言う映画になっている)

もちろん、患者たちの実にユニークな床張りの仕事を現代アートとして喜んで受け入れる、イタリアという国の美術に対する柔軟な姿勢というものがある。果たして、真面目で保守的な日本はどうだろうか?

バザーリアの運動を見ていると、これは精神病棟だけの問題じゃなく私たちの話でもあることに気が付く。いかに私たちが不自由な世界にいるか、つまらない差別や偏見に満ちた社会にいるか、そしていかに管理された社会が閉鎖的であればあるほど、人を病んだ存在にしてしまうことか、それと反対に、人の自由を尊重することが、いかに人間らしさを取り戻すことと関係があるかがわかってくる。

バザーリアの運動は実にシンプルで、「相手の個性を尊重し、自分の個性も生かす」たったこれだけだけど、これを、実践するのは案外難しいかもしれない。
「相手より優位に立たない」「人に先入観を持たない」「人をジャッジしない」「誠実である」「どんなに小さくても相手の才能や美点を見つけて伸ばす」「相手と同じように歓んだり悲しんだりする・・」人の個性を尊重して、対等に付き合うって、なんて素晴らしい事だろうか!人の個性を尊重することは相手にも自分にも両方に幸福をもたらすことなのだ・・

優秀な人は、周りの人間の能力をレベルアップさせる力を持っている。善良な人はその場の空気を明るく友好的なものに変える力を持っている(それらの逆もまた真なり)、おそらくバザーリアは両方持っていたのだろう。さらに恐れることなく、人に対して誠実に本気で付き合う事のできる勇敢な人だったのだ。(彼は患者に殴られて鼻を折られてもひるまなかった)それは人間に対する根本的な信頼感と愛情、並はずれた忍耐強さがなければとてもできないことだろう。

それに比べると、当たり障りのない事しか言わず、まるで他人事のように話す政治家や、支配・被支配の人間関係、忖度が多く集団同調しやすい人間関係など・・何て空虚で醜悪なんだろうか・・

私たちはこの世界に生まれ落ちた時から否応なく、社会制度に組み込まれている。精神病棟を開放したバザーリアが何より嫌悪したのは、「賞罰の論理」の承認欲求の中に潜む人の権力志向だろう。承認欲求の強い人間は、自分がどう生きるかよりも、人にどう思われるか評判ばかり気にするような人間が多い。承認欲求の強い人ほど、支配被支配の人間関係を好むのは、自分の判断力など主体性というものを持たないで済むからだ。バザーリアは権力欲・名誉欲が、その人間性をひどくゆがめるということに気が付いていた・・

医師である彼は患者とも看護師とも、まるで友人のように対等に接触した、そしてまず、医師である自分が権力をもたないこと、人を決して自分に都合よく管理したり支配しないこと、相手と同じ目線を持とうとすること、人の個性を尊重することによって、悲惨な精神病棟の状況を、まるで枯れた植物に水と太陽を与えるようにイキイキとした、明るいものに改善させたのである。(それはどんなにか骨の折れる仕事だったろうか・・本当に優しい人間は、どんな他人の面倒事も平気で引き受けられるということだろう。)

最近の気候変動の問題と資本主義の関係を、斉藤幸平さんは『人新世の資本論』でマルクス主義をベースに自由経済を批判しているが、バザーリアもやはりマルクス主義をベースにしたやり方で管理型の精神病棟を改革し、自由に開放した。バザーリアが医療をビジネスとしてではなく、本気で患者の立場を考え、果敢に精神医療の改革に取り組むことができたのは、彼が経済的な問題をあまり気にしないですむ貴族の出身だったからかもしれないが・・

・・・問題は何かと言えば、患者の役に立つためには、私が自分の主体性を表現するのと同じように、あなたも自らの主体性を表現しなければならないということです。『自由こそ治療だ!』フランコ・バザーリア

この「患者」という言葉を「社会」に置き換えてもいいと思う。自分の主体性を大切にすることは、他人の主体性を尊重することにつながってゆくだろう。どんなに科学技術や医療が発達しても、人間にしかできないことがある。

バザーリアが目指した、「生のリアリティ」のある社会。それには、まず私たち自身が主体性と自由を取り戻すという、自分自身の見直しから始めるのがいいのかもしれない、私たちが「生のリアリティ」を取り戻すために必要なのは、知性ではなく心なのだと思っている。私たちに必要なのは、社会に抑圧されたりゆがめられていない開かれた心、柔らかで傷つきやすい無防備な心じゃないだろうか。

シモーヌ・ヴェイユ、グレン・グールド、フランコ・バザーリア、哲学者、ピアニスト、精神科医、と専門は違う三人の事を書いた。
ヴェイユやグールドのように他者の痛みや苦しみを我がことのように感じる芸術家的な感受性(グレタさんタイプ)。バザーリアのように精神病者とも真摯に対等に付き合えるような、自由なオープンマインドの持ち主の改革者。
これからの変革の時代には、以上の三人のような、他人の事を他人事としてすますことができないような感受性の持ち主や、改革者が必要じゃないかと思っている。

要するに、三人ともきわめて人間らしい『心』を持った人たちなのである。



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