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梟翁夜話 №92 [雑木林の四季]

「思ひの丈」

          翻訳家  島村泰治

やや異色な話しをお聴きいただく。思ひの丈(たけ)と云ふ言葉、何とも快い余韻を響かせる日本語ではないか。丈とは寸法で長さのこと、ちょっと膨らまして、限りなどとしてもいい。だから、思ひの限りとは思ひの及ぶ限りと云ふことで、艶のある話では、口舌(くぜつ)の極みの意にもなる。

本稿は、その「思ひ」をめぐって日本語と英語を比べてみやう、云ふなら言葉の丈を測ってみやうと云ふ趣向だ。日英どちらでも、思ひに左程の違ひはあるまい、とのご意見には合点致しかねる。まず、そもそも英語には「思ひの丈」などと云ふ小粋な言ひ回しがなく、 extentとかdegree,levelなどで敷衍もできやうが、どれも丈と云ふ“寸法感”はない。

話を膨らませば、日本語は思ひを深める意味合ひで陰影の深浅をさまざまに言ひ表す言葉を派生させる。思ひなら、動詞だけでも思ひ由来の表現がいくつか即座に口をついて出る。思ひ切る、思ひつく、思ひ残す、思ひ出す、思ひ返す、などなど。英語とくに米語の場合は、思ふthinkの後に前置詞などをぶら下げて意味を広げる便法があるにはある。think back, think up,think of, think~over,think outなどがいい例だが、いずれも意味が思ひから離れ、思ひから直に派生する日本語とは違い一貫性に欠け、覚える側には要らぬストレスを課すだけ野暮だ。思ひ出すなど、think~では意を尽くせずrememberじゃなればならない。思い返すはたしかにthink backとでも言えさうだが、この意味は振り返るに近くrecallとでも言はないとしっくりこない。それが日本語では、これをすべて思ひから派生して言ひ回すところが、なんとも粋なのである。この点だけをとっても、わが日本語は英語(に限らず大方の外国語)よりも機能的で、表現力豊かな言語であることがわかる。

それほど表現力豊かな言語を使ひこなす日本人が、英語(に限らず大方の外国語のどれも)を覚えるのに苦労するのは何故か、覚えたにしても何とも拙く、上手く使いこなせないのはどうしてだらうか。

ここまでの指摘が、あることを示唆してゐることにお気づきだらうか。日本語では思ひを語幹に数々の派生語が生まれ、思ひ絡みの語彙が多彩になる。魚取りに例えるなら、網(思ひ)で魚たち(思ひ切るなどなど)を掬いとる感覚で表現の世界が広がるわけだ。それが英語の場合、thinkそのものの意味がごく狭いから、think絡みの語彙(派生語)は生まれない。生まれないから、recallやgive up、rememberなど他の単語を覚えねば収まらないと云ふ手間がかかるわけだ。このことだけにでも、日本人に英語など外国語が苦手な理由が垣間見られる。

思ひに拘りすぎたやうだが、実は構文的にも似たようなことを指摘できる。日本語の融通無碍が身に付いた日本人には、あれこれと約束事が多い英語は苦手だ。何匹でも犬といえば大方済む日本語の大らかさには、いちいち単複を明らかにせねばならぬ英語はひたすら面倒だ。冠詞のある無しなど、日本人には責苦でしかない。フランス語などでは名詞をすべて性別に分けねばらぬなど、日本語から見れば愚にもつかぬことを覚えねばならない。英語でも船は女性名詞なのはその影響だ。

つまり、日本人が英語(外国語)を上手く操れないのにはもっともな理由があることが分かる。日本の着物は大袈裟に言へば「布切れを帯で締めた衣服」だが、外国のドレスは布の裁ち方から縫ひ方、あれこれの装具の有り様まで細々と決まりがあるやうに、言語にも同じやうな対照が見られるのだ。言葉にも衣装にも、日本的な融通無碍さが通奏低音のやうに流れてゐることに気づくことが肝要だ。


英語と付き合って八十六歳になる筆者には、このことが骨身に染みて分かる。この骨身に染みた経験則を生業の翻訳、とくに和英翻訳に存分に活かしてをる。日本的な英語を書いて、英語圏の人々に日本語の、いや日本の文化的な融通無碍を解らせやうとの趣向だ。


思ひの丈が英語圏にわかるかどうか、あわよくば浸透して日本への関心が言語的なレベルで深まるかどうか、老ひ先長からぬ翁の妄語と聴かれるか、ひょっとして先になって跳び出る瓢箪と見るか、これは筆者だけの密かな愉しみである。




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