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日本の原風景を読む №30 [文化としての「環境日本学」]

三面川の鮭文化

  早稲田大学名誉教授・早稲田環境塾塾長  原 剛

鮭と人が一体に

 東北の屋根、飯豊・朝日連峰のブナ原生林から湧き田す三面川は、わずか五〇キロの間に標高差約二五〇〇メートルをいっきに下り、新潟県村上市郊外で日本海へそそぐ。弁慶ゆかりの多岐神社が鎮める河口一帯に、北限に近いタブの木の見事な「魚つき保安林」をめぐらせる。早春放流されて間もない鮭の稚魚が、長旅に備え森蔭に密集してくる。
 山・川・森・海が連なる壮大な自然の営みと、村上藩の昔に遡る人々の英知が、この地に類まれな「鮭文化」を生み、現代に脈々と引き継がれている。
 三月から四月にかけて八〇軒の町屋が、四千体ものひな人形を飾り人々を迎える。
 越後弁での会話も楽しめる町屋の「人形さま巡り」だ。
 その一角、伝統の漆喰塗り土壁、黒一色の田格子、面格子に昔風の大きな木製看板を掲げた鮭加工業「喜っ川」が、大町通りで村上名物の塩引鮭つくりに熱中している。
 「お早う。ありがとう!」。朝一番、店をあずかる吉川真嗣さんは、通り土間の高い天井からぎっしり吊り下げられた鮭に挨拶する。
 寒気鋭い土間の正面に、鮭を塩漬けにした巨大な桶はんぼ(半鮭)が。吉川さんは語る。
 「はんぼはもともと神様への御供え物用の尊い器です。私たちにとって鮭は、長旅から村上へ戻って来ていただいた神のような存在です」。
 十一月、塩引鮭の仕込みが始まる。一、二月の寒風で乾燥、三月から五、六月は湿度を吸って発酵させる。「つるした鮭の鼻さきからポタポタ体液が滴ります。鮭が泣くと言います」(吉川さん)。
 七月梅雨の湿気、八月盛夏の高温、そして九月の秋雨と出合い、塩引鮭は年間を通し発酵、熟成を繰り返す。それぞれの季節が絶妙の味を提供してくれるのだ。
 それが「村上鮭文化」と讃えられるのは、季節の節目に行われる伝統の生活行事を鮭が彩っているからだ。
 大晦日、食卓の主役は塩引鮭である。カマの下一番目のひれ(一のひれ)は、一家の主に供される。酵化して四年間、一瞬の休みもなく鮭は一のヒレを動かし続ける。そこには不屈の生命力が宿ると考えられ、一家を支える主に供される習わしだ。
 十一月の七五三には男の子の「袴儀」に塩引鮭が料理される。
 「たくましく育って、戻ってこい、との願いが込められています。鮭と人が一体になった村上の鮭文化です」(郷土史家、大場喜代司さん)。
 酒に浸して柔らかくした塩引鮭、飯寿司、ひずなますなどは定番だが、バンビコ(心臓)の塩焼き、ドンガラ(中骨)の煮込み、はは肉を味噌であえたホッペタミソ、内臓ごった煮のカジニとなるとうなってしまう。

切腹を忌む塩引き鮭

 三面川と鮭の歴史を支えたのは、村上藩の土木工事を取り仕切る郷村役の下級武士、青砥武平治(一七一三~八八年)である。江戸時代に陥った不漁の原因を探っていた青砥は、鮭が生まれた川に戻ってくることに気付き、自然産卵の数を増やす〝種川″つくりに着手、三五年かけて完成した。
 中洲を利用して川の流れを分かち、一本を本流、もう一本を分流(種川)とし、本流では漁を続けて運上金を得つつ、種川では産卵、醇化に拠る回帰数を飛躍的に高め豊漁を取り戻し、藩の財政を安定させた。世界で初の鮭醇化増殖は石狩川(北海道)、庄内藩(山形)、アメリカ、ロシア、カナダに相次ぎ取り入れられた。
 明治十五(一八八二)年、村上藩の旧士族たちは三面川の漁業権を国から継承し、「村上鮭産育養所」を設立した。「育養」の名称が示すとおり、収益は教育と慈善事業にも充てられた。大正六年には約四万六〇〇〇円の基金で財団法人を設立し、本格的に教育事業を進めた。村上ではこの育英制度で勉学した人たちを「鮭の子」と呼んでおり、多くの英才が輩出した。
 三面川で獲れた鮭の塩引きは、尾に向けて腹をすべて切開せずに、一部を残し内臓を取り出す。城ド町村上では〃切腹″のイメージを嫌ったのである。初冬、民家の軒先には、半開きの腹をさらした鮭が盛大に吊るされる。室内干しはマイナス四度に保ち、人間は厚着をして鮭に付き合う。

村上鮭の子-稲葉修の生涯

― 稲葉さんの郷里、三面川に鮭が帰ってくる季節になりましたね。
稲葉さん それで二月九日に東京の帝国ホテルへ天Fの名士三〇人を招いて、恒例の「三面川の鮭を食べる会」をやるんだよ。
 もう四〇年にもなるかな。私は毎秋、三南川で獲れた鮭を味噌漬けにしたのと塩引きにして干したものと二つ、天皇・皇后両陛ト、皇太子殿下を始め各皇族方に差し上げてきた。「日本一の三面川産鮭の味噌漬け樽ご愛嬌に献呈仕ります。新潟県村上市鮭鱒堂二代目主人、稲共修」と書いてね。初代の主人は私の長兄、圭亮だった。

 怖いものなし。〃稲葉節″とよばれた率直な発言と高潔な人格で親しまれた稲葉修衆議院議員(法務大臣)に、私がインタビューした折の記録である(一九八九年十月)。
 「我が旧藩内藤藩は歴代藩主が名君で、鮭を藩の産物とし、その利益を英才教育に使った歴史がある。私も〃村上鮭の子〟だった」と語り、目を輝かす稲輿さん。
 有数の鮭川、三面川の畔に生まれ育った稲葉さんは、四歳のころから三人の兄に、釣りを教え込まれる。豊かな山林からにじみ出た水が奔流となって万物のいのちをはぐくむ原風景を、〝稲葉少年〟は自己形成の空間として今も魂の奥に固く守り続けているようだ。川の自然の素晴らしさ、湧き出る感動を他に伝えずにはおれない-。「わしは村1鮭の子だ」と目を輝かす稲葉さんから、そういう気迫が伝わってくる。稲葉さんは田中角栄内閣で文部大臣、三木内閣で法務大臣をつとめた。

稲葉さん それでロッキード事件の頃たまたま一÷木内閣の法務大臣をやらされておったものだから、思い切って政界浄化になればと思いああいうこと(昭和五十一年七月二十七日田中角栄前首相を逮捕)をやった。ところが闇将軍みたいなことになっちゃって、ますます政界浄化はダメだ。せめて水でもきれいにしようと思ってね(「日本の水をきれいにする会」の会長に)。正しいことでも長く、粘り強くやらなければいかんもんだな、というのが教訓でしたな。
 北海道知床半島の鮭番屋のヤン衆が、鮭は生まれた川の紅葉の香りをかぎに戻ってくスのだ、と言ってました。
稲葉さん そう、そう、全問の河川でも海岸でも、水のよしあし、自然の貧富はその付近に住んでいる人間の品格によるね。悪い所は川の自然もだんだん悪くなっていく。鮭でも密漁なんかする奴が沢山いる所はダメだな。
 愛知県が推進した長良川河口堰について。
稲葉さん 三面川が一例だが、いっぺん川の自然を壊したら復元するのは大変なんですよ。
水を愛し、魚を愛せよ。フィロソフィ(哲学)のフィロは「愛」、ソフィは「知」なんだ。愛知県なんかもっとその辺を考えなきゃ(笑)。本当の意味の科学精神だが、まあ海部(総理)程度ではね。愛知県もな(笑)。
(一九八九年八月、稲葉さんは郷里の荒川でカジカ獲りの最中に脳内出血で倒れた)

 川畔の三面川鮭産漁協事務所で、佐藤健吉組合長は「村上鮭の子」の秘話を明かした。稲葉さんの遺骨は、夫人の手で秘かに上流に散骨されたという。釣り歴七〇年、「日本の水をきれいにする会」の会長を長年つとめた稲葉さんの夢がたゆとう三面川の風景である。
 初秋の三面川に戻った鮭は、タブの木の森が連なる右岸伝いにブナ林の上流に向かう。「鮭が三面川の用水の味を覚えているからでしょう」と佐藤組合長。かって林野庁が上流域のブナ林を伐採した時、反対する鮭漁師と市民たちが「鮭の森づくり」に集い、森からの実生の苗を集めて、朝日連峰山麓で植林を始めた。水と養分を供給するブナの木は森のいのちの源とされ、欧州では〝マザーツリー″と呼ばれている。日本の古い諺「ブナの実二升、金一升」も森と鮭の物語に托され、現代に生き続けている。

『日本の「原風景」を読む~危機の時代に』 藤原書店




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