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多摩のむかし道と伝説の旅 №65 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

          多摩のむかし道と伝説の旅
       -渋沢一族が主導した飯能戦争の戦跡を巡る-1

              原田環爾

 幕末の慶応4年5月(1868)飯能は兵火に包まれました。新政府軍に抵抗して飯能に陣を敷いた振武軍に新政府軍が猛攻を加えたのでした。世に飯能戦争といいます。この戦闘で振武軍は壊滅し、市内の200軒の民家と四ヶ寺が灰燼と化しました。その振武軍を率いたのは現在NHKで放送中の大河ドラマ「晴天を衝け」に登場する日本資本主義の父と言われる渋沢栄一の従兄弟渋沢誠一郎(幼名 喜作)です。振武軍の結成には渋沢一族が深く関与し、この戦で戦死者も出しています。まずは飯能戦争に至るまでの経緯を記す。

飯能戦績1-1 のコピー.jpg

 慶応4年(1868)正月、鳥羽・伏見の戦いで敗れた将軍徳川慶喜は江戸へ逃げ帰り、朝敵となって上野の寛永寺に謹慎しました。この事態に主君を慰め身辺をお守りしたいと、一橋家臣有志が鬼子母神の門前酒楼「茗荷屋」に集まりました。有志の中には渋沢栄一の従兄弟の須永伝蔵も加わっていました。会合を重ねるうちに新政府に不満をもつ一橋とは無関係な武士が多数合流し、やがて浅草東本願寺で渋沢誠一郎を頭取とする彰義隊が結成されました。4月3日本拠を上野の寛永寺に移し江戸に迫る新政府軍を迎え撃つことになりました。ところが4月11日飯能戦績1-2.jpg慶喜が寛永寺を出て水戸へ向かうと、戦闘方針をめぐって渋沢成一郎と副頭取の天野八郎の意見が対立、渋沢は江戸で戦うのは不利として郊外に出て戦うことを唱えたましたが、天野はあくまで江戸で戦うことを主張。やむなく渋沢は隊士90余名を率いて彰義隊を離脱し、5月初旬田無村の西光寺(現総持寺)に約500人を結集して自らを頭取とする振武軍を結成しました、副頭取には従兄弟の尾高惇忠、参謀には惇忠の弟で栄一の養子となった渋谷平九郎も加わっていました。振武軍は田無の村々から4千両を越える軍資金を調達して箱根ヶ崎村に移動しました。5月15日上野の彰義隊が新政府軍との戦闘に入ったとの知らせを受けると、振武軍は援軍として上野へ向かいました。しかし高円寺村まで来たとこ飯能戦績1-3.jpgろで彰義隊が壊滅したことを知り田無に引返しました。振武軍はきたる決戦場を飯能に定め、田無を立ち扇町屋を経て5月18日飯能に入りました。飯能では能仁寺に本陣を置き、智観寺、広渡寺、玉宝寺、秀常寺、心応寺、観音寺に兵を分散布陣しました。5月22日扇町屋に入った新政府軍は2000~3000人の兵力で翌23日飯能に進軍し、つい に飯能は戦場と化しました。その結果、能仁寺、智観寺、広渡寺、観音寺の四ヶ寺と民家200軒が焼け落ち、わずか半日で振武軍は壊滅しました。


 本稿ではこの戊辰戦争のひとつである飯能戦争の戦跡、旧跡を巡ることにする。JR八高線東飯能駅を出発し、能仁寺など六ヶ寺と天覧山、名栗川などを巡り、帰路は西武線飯能駅に至るものとする。(この項つづく)

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