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西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い」 №60 [文芸美術の森]

                          歌川広重≪東海道五十三次≫シリーズ

             美術ジャーナリスト  斎藤陽一

                       第11回 「御油旅人留女」
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≪旅人を引きずり込む留女≫

 前回は、広重の連作「東海道五十三次」の第21図「丸子名物茶店」を紹介しましたが、そのあとに続く14の宿場を飛ばして、今回は第36図「御油旅人留女:ごゆたびびととめおんな」(上図)を取り上げます。

 御油(ごゆ)は現在の愛知県豊川市御油町にあたります。「御油宿」は、古くから「遊女の宿場町」として知られ、江戸後期には、旅籠百軒余りに遊女を300人も置いていたと伝えられています。もっとも表向きには「飯盛り女」と呼んで、泊り客の“飯を盛る(給仕をする)”女として取り締まりを逃れていました。
 宿の表に出て、街道をゆく旅人を勧誘するのも彼女らの務めで、「留女:とめおんな」とも呼ばれたのです。現在の言葉で言うならば、「客引き」ですね。旅籠に引っ張り込んだ客の一夜を慰めるのも彼女らの仕事でした。

 ところが、この「御油」から次の「赤坂宿」まではわずか1.7kmほどの距離なので、放っておくと旅人は御油を素通りして赤坂に宿を取ってしまうかも知れない。そこで、御油の「留女」は力づくでも旅人を連れ込もうとしたのです。旅人が泊り客になってくれれば、自分の夜の稼ぎにもつながります。

 そのような事情を頭に置くと、この絵は分かりやすい。
 黄昏時の御油の宿場。沢山の旅籠が軒を並べている。そのうちの一軒の宿の前で、体格のよい客引き女(留女)が、街道をゆく二人の男を力づくで自分の旅籠の中に引っ張り込もうとしている。
60-2.jpg 男たちは、あまり器量の良くない女たちから逃れようとしている。もし引きずり込まれたら、彼女らが今夜の相手になるかも知れないからです。
 女たちにとっては、彼らは「今夜のかせぎの相手」ですから、手加減しない。こちらに顔を見せている男は、首にかけた荷物を引っ張られて苦しそう。もう一人の男は、左腕と袖とをしっかりとつかまれて逃げるに逃げられない。

 前回に紹介した「丸子名物茶店」(第21図)の中の、床几に座ってとろろ汁を食べる二人の旅人には「弥次さん喜多さん」が投影されている、と指摘しましたが、御油宿のこの二人も同様です。
 十返舎一九の滑稽本『東海道中膝栗毛』でも、弥次さんが留女に引っ張られ、這(ほ)う這(ほ)うの体で逃げ切る場面が書かれています。
 広重の「東海道五十三次」シリーズには、随所に「笑いと遊びの精神」が発揮された場面が見られますが、それらは、『東海道中膝栗毛』のユーモア精神と、俳諧のもつ一面である「滑稽と軽み」などが背景にあるのではないか、と思います。

≪細かい描写にも味わいが≫

 広重の描写は細かいので、他の登場人物たちにも目を向けてみましょう。

60-3.jpg 右側では、玄関の上がり框に腰かけた武士が、婆さんの差し出す盥(たらい)の水で草鞋を脱いだ足を洗っている。その左には、頬杖をついて通りの騒ぎを眺めている女。この女性は若くて器量好しなので、このお侍を宿泊客にすることに成功したのでしょう。
 その窓下には、町娘が面白そうに留女と旅人の“格闘”を見ている。広重は、脇役とも言える周囲の人物をもきめ細かに描写します。

60-4.jpg さらにこの絵で興味深いのは、宿の壁にずらりと掛けられた名札です。
 左から「一立斎圖」(広重画)、「摺師平兵衛」「彫工治郎兵エ」「東海道続画」と読めます。右端の札の文字は半分しか見えませんが、「三拾五番」と読め、出発点の江戸日本橋を除く35番目の宿場・御油を指しています。大きな円の中に書かれているのは「竹之内板」、これは版元・竹内孫八(保永堂)の名です。
 この頃の広重は「一立斎:いちりゅうさい」と号していました。

 それにしても、絵の中に、絵師の名前のほかに摺師や彫師の名前をはっきりと描き込むということは珍しいことでした。「浮世絵版画」は、版元のもとで絵師・彫師・摺師の三者がチームを組んで制作するものですが、ほとんどは「版元」と「絵師」の名前だけが記されるのみで、このようにチーム・メンバーをはっきりと表示するものはあまり見られません。この1枚は、竹之内版(保永堂版)「東海道五十三次」シリーズの宣伝を摺り込んだものと考えられます。

≪遠近法的構図≫

 「構図」にも注目したいと思います。
 宿場と街道は、きちんとした「遠近法」で描かれ、私たちの視線を奥へと誘います。家並みも奥へ行くにしたがって影の中に沈み、夜のとばりが下りつつある風情が醸し出されています。
 若き広重が歌川派に入門してからしばらくの間は、絵師としてほとんど芽が出ませんでした。その間、広重はさまざまに絵の勉強範囲を広げ、自分の中に蓄えました。その中には「西洋画」の学習もあったのです。そこで広重は「西洋的遠近法(透視画法)」を修得しました。そのような学習の成果が、この「東海道五十三次」の随所で発揮されています。

 現在、東海道は全体として昔の面影を残すところは少ないのですが、御油には連子(れんじ)格子(ごうし)の家並みや松並木が残っていて、旧東海道の中で最も昔の面影を偲べるところとして知られています。

 次回は、「東海道五十三次」中、「蒲原夜之雪」(第16図)と並んで名作との評判高い「庄野白雨」(第46図)を取り上げます。



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