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過激な隠遁~高島野十郎評伝 №53 [文芸美術の森]

第八章 晩年南柏のアトリエ
 
    早稲田大学名誉教授  川崎 浹

「イギリス紳士のような」高島さん

 ある日とつぜん「イギリス紳士のような」高島さんが武藤歯科医院を訪れ、日頃のお礼
に牛肉を手渡した。画家が風呂好きなのを知っていた女医さんがぜひ家の風呂をお使いく
ださいと勧めたが、というのはアトリエには風呂がなかったからだが、画家は静かに辞去
したという。
 増尾でも柏でも、外出するときの高島さんがいつも「ぱりっとした」服装をしていたと
周囲の人たちが驚き、伝説にさえなっている。畑仕事をする野良着姿の画家や、質素な小
屋を見慣れた、またルンペン絵かきと呼ぶような周囲の人たちの目にはそう映ったのだろ
う。
 しかしそれは話が逆だと思う。私から見た高島さんはつねにきちんとした「紳士」であ
り、かれの服装はかれの精神の格を表していた。画家の経歴や長い欧米生活はいわずもが
な、歴とした人間にふさわしい服装をしていたまでのことである。私も、欧州の都市で帽
子をかぶった中老の婦人たちが身ぎれいな正装で八百屋や肉屋を訪れているのを見て感じ
たことがある。
 高島さんは自分自身にふさわしい風姿で生涯をとおした。その人がたまたま質素な小屋
に暮らし、土まみれの畑仕事をしたにすぎないのであり、路上に出るときは正常の自分の
服装にもどった。こちらのほうが高島さんの精神のあり方には自然でふさわしい。
 遺稿『ノート』の次の成句は当然のように、そのことを乞食という逆の視点から語って
いる。

   武士は食はねど高揚子
   乞食
      精神文化の極致

 野畑と林と一本の樹と藁屋根の一軒屋に雪が降りつもる《積る》が画架に置かれていた。雪国はどこですか、武藤さんが開くと、山形県の小国のあたりとの答え。「女先生」は父親が山形出身のせいかひどく惹かれる絵だったが、「絵は売らない」と画家が言う。「それでは購入したいので早く個展を開いてください」と彼女がお願いした。
 季節になるとアトリエの土間に三十センチほどの筍が生えてきた。一週間おいて「女先
生」が訪れると筍が三メートルほどに伸びていて、目を瞠らさせた。
 画架には《菜の花》が置かれ、《雨 法隆寺塔》もあった。野十郎は個展でもある種の絵
を非売品のつもりで展覧していたので、信じられないようなことが生じている。
 私が最初に青山のアトリエを訪れて感銘をうけた《流》が、なんと十七年後の柏のアト
リエにも置かれていたのである。ところが彼女が次の週に訪れた際《流》が見えず、怪訝
におもい尋ねると、購入者が持ち去ったとの答え。体力がとみに衰えてきた画家が考える
所あって手放し、購入者も待ちに待って機をうかがい初志を通したのではなかろうか。こ
の絵は公共施設に買い上げられている。
 高島さんの大作が個展に出品されながら購入されないまま取り残されていたのは、最初
から非売品としたのか、画家があえて鑑賞者の購買意欲をそぐためにひどく高価な値段を
っけたからと考えられる、西本匡伸氏の推測に私も同感である。画家がこれを自分の手も
とに置いて「見る」、つまり「研究」するためである。画家は自分の「研究」の長い時間
が蓄積されている絵と向き合い、いつまでつづくか分からぬ対話をさらにつづける。
 ァトリエの土間に筍が生える前後の三月、五月に、八十二歳の画家は京都、奈良、木曽
に旅行しているが、その後、足が弱り遠出ができなくなる。それでも新しいアトリエを待
て画家は世俗の騒音に悩まされず画業を続けることができるようなった。

『過激な隠遁~高島野十郎評伝』 求龍社


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