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医史跡を巡る旅 №89 [雑木林の四季]

江戸のコレラ~安政五年 原宿その後

        保健衛生監視員  小川 雄

また1回お休みしてしまいました。

首相のなりふり構わない国民皆ワクチンの大号令下、皆様はいかがお過ごしでしょうか。もうワクチンはお済みになったでしょうか。

必要とする人に、いち早くワクチンを接種することについては、全く異論はありません。ただそもそものワクチン確保の遅れや、無策ともいえる感染抑制への苛立ち、やっている感の演出のために、無理に無理を重ねて接種を推し進めることは、ただでさえひっ迫している医療体制をさらに圧迫することになります。それだけではなく、接種を希望する人々のニーズとはかけ離れた形で空回りすることなり、限られた時間と医療資源、人材という貴重なリソースを無駄遣いすることとなります。

毎日のように、それも時には一日何件もワクチンの保管や運送の失敗、希釈・分注・接種ミスが報道されています。今までの他のワクチンとはデリケートさが格段に違う新型コロナワクチンを集団に接種することを、医学や薬学の専門知識のない人間が計画し、実行している。これがどれだけ危ういことなのかを如実に示しています。否、報道されるということは誰かが気付き、問題意識を持って発表されたということで、表に出ている案件を起こしてしまったところは、失敗に気付けるだけ、まだ「まとも」なところといえます。おおくのところが失敗にも気づかず、見過ごされ、あるいは「なかったこと」にされていないか、危惧されます。

当初から示していたワクチン接種のロードマップを有名無実化し、「打てるところからどこにでも」という政策は、恵まれているものを優先し、弱者を置き去りにすることになりかねません。接種が遅れている地区は、それなりの理由があるはずです。その原因を探り、排除することもなく、数字的に政府のお眼鏡にかなうところを称賛し、優遇する。「ダメなところ」には躊躇のない恫喝と、脅しが線状降水帯のように降り注ぐ。ちなみに一番最初に終わらせるべき医療従事者向けのワクチン接種も、1回目の接種は済ましても、まだ2回目の接種が終わっていない人の割合は現時点で約24%、4分の1に上ります。そしてこの計算には、まだ1回目の接種すら終わらせてない人の数は含まれません。

「挙国一致」「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」「自力更生」「理屈言ふ間に一仕事」…昨日今日の政治家の発言ではありません。今から80年ほど前、戦争遂行のために、国策的に用いられた標語のいくつかです。対新型コロナ戦は、純粋に科学とウイルスとの戦いです。そこに精神論を持ち込むことは80年前の悪夢の再現にほかなりません。

あだしごとはさておき。
安政五年のコレラ流行において、大きな流行を見た吉原宿の隣にある原宿。さてここでの被害はどれほどだったのでしょうか。
再び「原宿問屋渡辺八郎左衛門日記」を見てみましょう。

「原宿問屋渡辺八郎左衛門日記」

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「原宿問屋渡辺八郎左衛門日記」~沼津資料集成6 沼津市立駿河図書館刊行

前回は原宿住人に初めて犠牲者が出た件までご紹介しました。

(安政五年八月)十七日己未曇五ツ半時より晴
(略)ふじや縫右衛門殿方格兵衛殿死去題目講中一人も立會不申尤も親類も同断之よし雲助弐人え金壱両ツゝ与ヘ取形付爲致候趣哀れ之事ニ御座候

格兵衛に続いて、二十七日には二人目の犠牲者が発生します。

廿七日己己曇
繪図面描之新兵衛相談ニ来左官吉五郎死去後佛致ニ付夜ニ入篝火焚騒く江都より麻ノ一帰り宅え来

そして三人目の犠牲者の時には諍いが起こります。

(九月)九日辛巳朝ヨリ天氣夜清光
目出度重九之禮ニ歩行元兵兵衛殿乍禮遊ニ来其後予も西屋敷え遊ニ行以上みたまやおてつどの死去然ル処宮地に住居いたし候ニ付通行路六ヶ敷地方役人より作兵衛平七間道を通し可申由理解申付通す積りニ相成候処往来大道を籠ニて送り申候ニ付東組より嚴敷掛合ニ相成申し候

コレラに罹患し死亡した「みたまや」の「おてつ」の亡骸を寺に運ぶのにあたり、神社や街道(東海道)を避けて脇道を行くように取り決めたにもかかわらず、籠に乗せて街道を通ったとして、東町からクレームが付いた、ということです。感染拡大を恐れる隣町の感情と、せめて故人を普段通りに送ってやりたいとする遺族の感情がぶつかり合っています。

原宿には前回ご紹介した西の浅間神社のほかにもうひとつ、東町で本陣に近い位置に浅間神社があります。
こちらが前回ご紹介した西の浅間神社。

「浅間神社」

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「浅間神社」 ~静岡県沼津市原

こちらは元々の原宿の中心にあったと考えられます。
そしてもうひとつの浅間神社。

「浅間神社」

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「浅間神社」 ~静岡県沼津市原

原宿が高潮などに悩まされた結果、慶長年間に東海道そのものと共に山側に移転します。その中心になったのが後者の浅間神社となります。その後はこちらを原浅間神社とし、宿場町が形成されていきます。幕末期、宿場町中心部に設けられる本陣、高札場はこの浅間神社の前に建てられました。

「高札場跡」

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「高札場跡」 ~静岡県沼津市原

こうした移転の経緯もあってか、疫病化の混乱の中で、東町と西町の緊張が顕著化したものと考えられます。沼津資料集成6にはこの日記のほかに、原宿の構成もまとめられており、添付された原宿図が当時の状況を理解するのに役立ちます。

「原宿問屋渡辺八郎左衛門日記 付図 原宿図」

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「原宿問屋渡辺八郎左衛門日記 付図 原宿図」~沼津資料集成6 沼津市立駿河図書館刊行

さて話がそれましたが、渡辺八郎左衛門日記に書かれた原宿の被害は以上3人になります。隣の吉原宿が人口2,036人に対して死者213人も出したのに、原宿の被害がなぜわずかで済んだのでしょうか。
あくまで推定になりますが、町の規模の問題があります。人口比率での死者数ということもありますが、宿場の大小によって参勤交代での利用状況が異なっていたことも一つの理由と考えられます。
原宿にも御大老井伊掃部頭様(原文ママ)御家中が宿泊し、その一行の中からコレラ患者が出ていることが記されています。安政五年のコレラ流行では、江戸を中心に地方との間をダイナミックに移動する大名行列が、感染拡大の一端を担ってしまったと考えられます。今回のGO TOと同じ図式です。そして大大名、つまり大人数の一行ほど、規模が大きく収容人数の大きな宿場に泊まらざるを得ません。幸いにも原宿はそれほど大きな宿場町でなく、頻繁に大人数が宿泊することが少なかった。そのために大きな感染拡大を見ずに済んだのではないかと思います。

過去の日記の中に、現代の今まさに起こっていることと同じような状況を見出す。不思議な感覚を覚えます。


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