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梟翁夜話 №89 [雑木林の四季]

「歳の重み」

         翻訳家  島村泰治

数ヶ月ぶりに伺った上野毛の主治医に、四捨五入で九十になられたましたねと念を押された。益々ご壮健で何よりとも言われたから、笑みは返しつつ一言もなく黙したが、それを言われた瞬間、九十と言う数字の語感に実はぎくっとした。

ここ数年、前立腺癌や膝の手術、ばね指の手術やらで医者通ひが続き、壮健を自負する己の身体に翳りの兆しが出てをり、そのいずれも何なく凌いでやれやれと心を安んじてゐた時だったから、その数字に殊更に反応をしたのだった。

折々に雑文を書き連ねているHPに、思ふところあり巧んで時計をふた種類載せてゐる。ひとつは並みの奴で、年から秒まで時が累積する様子を可視化してゐる。それは、ふた親が長生きで、母は百まであと二歳と長らへたから、それを因果に自分もあと二桁は生きるだらうと踏み、生きるつもりと覚悟しての証しのつもりだ。

もうひとつの奴は、生きるつもりの百歳から逆算して、それまであとどれほどかを戒める時計で、絶えず降り積もる雪年に身が細る思ひを敢えて具現化しやうと云ふ、甚だ自虐的な計らいだ。

時を双方向に測る企みは、まだまだあるぞと安んじる心を、それそれ指間から漏れ落ちてをるぞと戒める思ひが絶えず抑えるイタチごっこで、時間のあるなしが絶えず意識に顕在してゐる仕掛けだ。

だから、五入すればもう九十との指摘は、存外こっちには響いたのである。何の因果か四十、五十の年頃に加年の意識がまったくなく、還暦とて周囲が騒ぐなか六十歳の大台さえも無感覚で過ごしたから、古希と名指しされた時も世間並みの挨拶程度で受け止めた。折からネット上でSNS経由の翻訳や書きものの仕事が増え、歳に似合わぬ社会的な関わりが要らぬ斟酌に及ぶ時間を掻き消してゐた。

そして八十歳、傘寿の壁は難なく越えはしたものの、如何なる作用かさしも加齢に無感覚な身が俄かに時間を意識し始める。HPに例の積算時計を掲げたのは八十二歳、追って逆算時計を添えたのが八十五歳、刻々と刻む秒針の動きに年毎に敏感になり、怠惰を戒める言動が増えた。

いま八十六歳と三カ月、時計どものに言はせれば86年114日11時56分45杪で残り13年250日18時間3分15杪だ。流石に分秒に煩わされはしないが、日々を時間単位で生きてゐるまでに「時」に敏感になってをる。

五入で九十はそんな時に囁かれた。虫の居所も悪かったのか、聞かされてぎくっとしたのである。さうさう早まっては困る、もちっと穏やかに流れて欲しい、その歳迄にせねばならぬことが済んでゐないぞ、などの雑念がどっと押し寄せる。事と次第によっては自分から吐きそうな一言が何故あれほど応へたのか、ひと月も経ったいまは滑稽にも思へる。

世に晩節と云ふ言葉がある。汚すべからずと云ふあれだ。自分がいまその領域に踏み込んでをるらしい実感が、この五入の一件で浮き彫りになった。思へば佳き時に囁かれたと、むしろ感謝の念が湧いてゐる。流石わが主治医、そこまで深掘りしての一言だったとは思へぬが、時を得た戒めには違ひない。五入されて失ふ四年を心して生きるべし、と秘かに覚悟を新たにしてゐる。

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