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日本の原風景を読む №27 [文化としての「環境日本学」]

リンゴ園を統べる岩木山

    早稲田大学名誉教授・早稲田環境塾塾長  原 剛

津軽人の魂のよりどころ

 山麓をリンゴの紅の実で埋め、山腹にブナ原生林の黄葉をめぐらせた岩木山(二ハ二五メートル)は、晩秋の装いを終えていまにも津軽平野、弘前の街へ歩みださんばかりの親しげな風情を見せている。作家太宰治は弘前城からの風景に感動し「ここは津軽人の魂の拠りどころである」と記した。
 市内約六千戸の農家が三一二万本の樹を育て、日本一、一六万トンのリンゴを穫る。
 岩木山山頂から駆け降りる紅葉前線を引き込んで、広大な山麓を赤、黄に彩るリンゴ樹海は、大自然と人の壮大、華麗な営みを描いて、観る者の心をゆさぶる。
 近代化を急ぐ明治政府の殖産興業策に乗って、かっての津軽藩下級武士たちの手でリンゴの栽培が明治八(一八七五)年から試みられた。以来一四五年、リンゴの栽培、技術と品種改良を、地域ぐるみでとことん追い求めた努力はリンゴ文化創造の物語に他ならない。
 九月の「つがる」に始まり、十月の「ジョナゴールド」「陸奥」「大紅栄」を経て、十二月上旬が盛りの「ふじ」に到る紅色系のリンゴ景観は、果てしなく広がる深紅のバラの園を思わせる。
 九月の「きおう」から「トキ」を経て、十「月の「王林」「金星」に到る黄色系も負けじと競い合う。
 津軽を歌う「りんご追分」など美空ひばりのヒット曲中、一、二の人気を誇る「津軽のふるさと」(作詞・作曲=米山正、一九五三年)もまた日本人の愛唱歌となった。

  りんごのふるさとは 北の果て
  うらうらと山肌に 抱かれて夢を見た
  あの頃の思い出 ああ 今いずこに
  リンゴのふるさとは 北の果て

山越え阿弥陀、自神山地

 弘前城の本丸(一六一一年)や、実業家藤田謙一の豪邸、藤田記念庭園(一九七年)がなぜそこに作られたのか。それは「岩木山」を眺める最良の適地だからだ。「家のどこからか、岩木山が見える建て方」が弘前市民の常識とされてきたのだ。
 およそ四百年の昔、日本海側の山麓深浦から、人夫を率いて弘前城づくりに加わった人夫頭の子孫、宮川慎一郎さん(弘前市観光振興部)もまた先祖譲りの「親方町」に住み、朝に夕に岩木山と親しく対している。
 「鎌倉時代から岩木山を描いた絵には『山越え阿弥陀』といって、頂上に阿弥陀如来像が描かれました。極楽は西に、西方浄土の仏教思想のせいです。岩木山は弘前の西にあり、浄土信仰の対象なのです」。岩木山はまた冷害をもたらす偏西風を八甲田山と共に防ぎ、津軽平野に稲を豊かに実らせる。
 東に連なる白神山地は世界自然遺産(一万六九七二クタール)の冷温帯ブナの大原生林におおわれている。「ブナ山に水筒いらず」のたとえどおり、ブナは巨大な樹体と落ち葉が積み重なった森床に無限の水をたたえ、津軽平野を潤す。豊かに実るブナの実は生物の命を支え、故にブナは欧州でマザーツリー(母なる樹)と愛称されている。
 青森県内だけでも北から南へ岩木川、赤石川、追良瀬川、吾妻川、笹内川、津梅川が自神山地に発し、日本海へ注いでいる。いずれも秋には鮭が帰ってくる清流である。
 日本海に臨む漁港・深浦町のはずれ、サケマス増殖センターの河畔に、「鮭魂塔」と刻まれた自然石の碑が、「限りなき 父なるこの大地 恵み深き 母なるこの川 和してこの故里を こよなく愛しつづけよう」と記されている。沢水が洗う山際と屋内に連なるプールにはサクラマス、ニジマス、ヤマメの稚魚が銀白色に群がる。
 弘前市と日本海側の鯵ヶ沢町とを結ぶ白神ラインの中間点、津軽峠、天狗峠から望むブナの大原生林は、世界遺産にふさわしい、生命あふれる迫力で迫ってくる。
 白神山地のブナ林を伐採するため青森、秋田両営林局が青森県西目屋と秋田県八森町の間に「育秋林道」を通そうとした一九八三年、追良瀬内水面漁協組合の組合長黒滝喜久雄さんは、地元から率先して反対運動に立ち上がった。
 「私自身が林業者としてブナを切り、ヤマを荒らしてきた。木を見て森を見ざる反省を栽培漁業につなげたい。〝木に縁りて魚を求める″時代ではないか」。
 黒滝さんらの問いかけに応え、林野庁は一九九〇年、白神山地一万六六〇〇ヘクタールを森林生態保護地域に指定した。木材のみを生産する国有林から、数千年をかけ日本列島の森林が育んできた自然と生物との係わり (生態系) を保存する林政へ転換点となった。

津軽方言詩人たち

 石坂洋次郎、佐藤春夫、葛西善蔵、太宰治、長部日出雄、副士幸次郎ら個性豊かな作家、詩人をこれほど密度濃く輩田した地域はめずらしい。
 出色は津軽方言詩人たちだ。一戸謙二、高木恭造、植木曜介らの津軽弁の詩は、その言葉の意味もさることながら、行間に溢れる、懐かしく暖かい抑揚とリズム感が、津軽三味線の奏でるじょんから節を思わせて心を揺さぶる。

   弘前(シロサキ) 一戸謙三
 何処(ド)サ行(イ)ても
 おら連(ダツ)ねだけァ
 弘前(シロサキ)だけァえンたどこァ何処(ドゴ)ネある!
 お岩木山(ユウキサマ)ね守ら工で、
 お城の周りさ展(フロダ)がる比のあづましいおらの街(マズ)

 どこに行っても
 俺たちには
 弘前のような場所はどこにあるというのだ!
 お岩木山に守られて
 お城の周囲に広がるこの快適な、心穏やかな俺の街…

 春の夕暮れ、ひとり弘前城を訪れ、岩木山を眺望した弘前高等学校文科生太宰治は、その時の印象を後に作品『津軽』(一九四四年)に記した。
 ―重ねて言ふ。ここは津軽人の魂の拠りどころである。何かある筈である。日本全国どこを捜しても見つからぬ特異の見事な伝統がある筈である。私はそれを、たしかに予感してゐるのであるが、それが何であるか、形にあらはして、はっきりこれと読者に誇示できないのが、悔しくてたまらない。この、もどかしさ。
 リンゴの樹海にあでやかにたたずむ岩木山の山麓風景が、太宰の「もどかしさ」の思いを、現代に解いてくれるかもしれない。それは大自然と人の営みが「共生する豊穣の大地」であるように思える。
 一九五五年、弘前大学に農学部(現・農学生命科学部)が作られた時、学内から「りんご学部」に、という声が挙がった。学部長の神田健策教授が率いるリンゴ振興センターは「自然、人文、社会科学各分野の教員が加わり文化としてのリンゴの研究を進めています」。
 新種のリンゴ「紅(くれない)の夢」は、果肉が赤く紅玉に似た味わいだ。津軽リンゴ文化の創造は脈々と続いている。

『日本の「原風景」を読む~危機の時代に』 藤原書店



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