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批判的に読み解く歎異抄 №30 [心の小径]

(おわりに)十三条(本願ぼこりと造悪無碍)再考 2

      立川市 光西寺住職  寿台順誠

 説明が長くなりましたが、親鸞聖人が「くすりあればとて、毒をこのむべからず」と言われたのは、「そのかみ邪見におちたるひと」、つまり「造悪無碍」に対して言われたことであって、決して「本願ぼこり」に対して言われたことではないなどと弁解するのは、まるで我々が推進しようとしている「尊厳死」はナチスがやったような「安楽死」という名の殺人行為とは違うものだと弁解しているようなものではないか、ということを私は言いたいわけです。一度、「(積極的)安楽死」を批判しておきさえすれば、後は「尊厳死」は丸ごと肯定されるのと、一度、「薬あればとて」という御消息さえ引いておけば、後は「本願ばこり」が丸ごと肯定されるということは似ていると思いませんか。ですから、私は十三条に申し訳程度に御消息の言葉が引いてあるのは、文字通り「造悪無碍」批判を展開する趣旨ではなくて、単に「アリバイ作り」にすぎないのではないかと言うのです。実は「安楽死」と「尊厳死二を質的に完全に切り離すことが困難であるのと同じように、「造悪無碍」批判の言葉を一度だけ引いたからと言って、「本願ばこり」が完全に「造悪無碍」から免れるわけではないでしょう。むしろそのような「アリバイ作り」をした上で、結局は「まったく、悪は往生のさわりたるべしとにはあらず」と宣うことこそ、まさしく「造悪無碍」肯定の所業だと言わざるを得ないのではないでしょうか。
 以上、「異義篇」の批判的読解を通して、『欺異抄』の著者の立場はやはり「造悪無碍」に限りなく近いものだということが見えてきたということを、今日の話の結論にしたいと思います。そして、以上に述べてきた私の見解を巻末の【『欺異抄』「異義篇」に対する順誠の見解】として図に示しておきましたので、これも参照していただければと思います。(12)

(註12) 講演当日はこの図式について詳しく説明する余裕がなかったので、この注で補足しておきたい。この図式の中で、「『欺異抄』の著者の立場」から「専修賢善・多念義」への批判の矢印がすべて実線になっているのは、「異義篇」のすべての条文にこの批判のベクトルを見つけることができるという意味である。しかし、それに対して、「造悪無碍」に対する批判のベクトルは見ることができるとしても、十二条と十三条に、せいぜい間接的で弱いものとして見られるに過ぎないということを、「『歎異抄』の著者の立場」から「造悪無碍二念義」への批判の矢印を点線にして示している。すなわち、十一条に「造悪無碍」批判が読み取れるとしても、それは確かに同条は「誓願」(一念義)と「名号」(多念義)のどちらか一方に偏することは否定しているので、そこに間接的に「一念義・造悪無碍」に対する批判があると、かなり無理して読み取ろうとすれば読み取れるかもしれないという程度のことであるし、また、十三条に「くすりあればとて、毒をこのむべからず」という御消息の言葉が引かれているのは、文字通りの「造悪無碍」批判というよりも、一応それを批判して見せるという「アリバイ作り」でしかないということから、その批判は極めて弱いものであるということを、図式の点線はしめしているということである。

寿台2-2.jpg
(左クリックして拡大してご覧ください)

名古屋市中川区 真宗大谷派・正雲寺の公開講座より


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