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じゃがいもころんだⅡ №52 [文芸美術の森]

犬と人生

        エッセイスト  中村一枝

 コロナと老化がいちどきにやってくるなんて思いもしなかったが、確実に、二つはくっついてやってきた。コロナは外側からあっというまに、老化は内側からじわじわと、である。
 コロナのおかげで外向きの生活が制約され、のんきな外出もままならない。マスクを着け、短い時間にさっと用をすませるのが当たり前のことになる。ふらふらとあれこれ見回しながら、物見をして歩くという懐かしい生活は過去のことになりつつある。特に買い物に困っているということはないが、何となくきゅうくつで、好き勝手ができないと言うわずらわしさがついてまわる。年をとってきたというのがその上に加わって余計楽しくない。 人と噺をする機会がどんどん失われて、私のように生活の中に人とおしゃべりを楽しんできた身にはどうも面白くない。
 嘗て戦争を体験した私たちには、戦争ほどいやなものはなかった。それは今も変わらない。命に別条はないだけに、今の方がずっとましなのだが、それにしても突然やってきたコロナと、予想はしていたもののじわじわと押し寄せる老化は、今やはらいようがないし、逆らってもどうしようもないのだ。
 その中で、犬を飼っているのは私にとって最大の楽しみで、最高の幸せである。犬好きと言うのは生来のもので、人を見ていても犬好きの人は自然に犬に近づき、犬もまたそれを感知するものなのか自分から近寄って来る。
 犬というのは当たり前の噺だが、飼われている人間の飼い方ひとつでどうにでもなるところがある。私など、目茶目茶かわいいという勝手なありようで犬をあつかっているものだから、犬も心得ていて、甘えて、勝手で、自分の好きに動き回っている。更に最近は、体が前のようにパッと反応できないこともあってか、我慢して待つということもしない。買い物の中身の甘いものや、時には生肉をとられたりする。
 それでも犬のいる生活の豊かさは、失敗をなんど重ねても愛しく、大事なものなのだ。たぶん、犬もどこかで同じことを思っているに違いない。
 散歩もできなくなったので、仕方なく人に頼んでいる。それが私には一番つらい。 犬を連れてそこいらを歩きまわる楽しみほどかけがえのないものはないからだ。私の気持ちがわかるのか、犬の方も散歩といっても以前のように飛び上がって喜んで出かける風はない。とにかく、一日中私にくっついている。私が二階に上れば、自分も「階段がおっくうになったくせにエッチラオッチラ上ってくるし、私が下へ降りればのこのこついてきてチョロッとおしっこをする。
 犬に「楽しい?」と聞いてみても「うん」というわけはないが、主人といることが犬とっては最高なのだと私は思っている。どっちがさきに行くか今のところ判らないが、できれば犬の余生を見とどけてやりたいというのが今の私の最後の望みである。感嘆はようだけど、それがなかなか難しくなるのが余生なのである。

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