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過激な隠遁~高島野十郎評伝 №51 [文芸美術の森]

第八章 晩年南柏のアトリエ

  早稲田大学名誉教授  川崎 浹

孤軍奮闘の隠遁生活

 昭和四十六年(一九七一)は日誌をつける暇もないほどで、高島さんがアパートから拙
宅にみえたのはいつだろうか。ときおり母伝いに高島さんの情報がとどいた。とはいえア
パートには電話がないので、画家がいきなり拙宅に見えて、「食中りをしたらしく、ひど
い症状に見舞われたので、二週間ほど何も食べずに寝ていた。病気は自然に治るものなの
だよ」と言ったときには驚きもし、感嘆もした。当時は聞きなれない自然治癒力という言
葉を教えてくれた。大家の園長さんが医者を呼ぼうとしたが、本人が断ったらしい。思う
に、資本主義という名の妖怪たちと孤軍奮闘した画家には、断食療法はすいれんの池での
しばしの昼寝にすぎなかったのだろう。
 私がアトリエ探しの手伝いもできぬまま交換研究員として長期のフランス滞在に向けて
出発した九月、高島さんは移転先探しを兼ね、水潜寺など秩父の札所を巡っているが、奥
秩父は冬が寒いこともあり、希望にかなう場所がなかったらしい。しかし武藤重喜氏に宛
てた葉書ではこの九月、画家は奥秩父からすり抜けるようにして吉野山にも出かけている。その文面は高度経済成長の波からいよいよ追いつめられてゆく画家のユーモラスな諦念がにじみでている。
 「吉野山にはきれいな水が流れている多くの谷があるのでその浄水を丁度一生分だけ飲んで来ようと楽しみにしていたが、どこも水際まで近寄れない。とうとう飲まずに下りてきた。御岳さんの谷は深い断崖になっていて人間には下りて行けない。行けるような処は凡てダムの湖になっている。東北の山もその他どこへ行っても同じ事、最早日本中浄涼な谷水を飲むという事も出来なくなったらしい。
 慈母観音の乳房からしたたり落ちる慈乳岩
 清水せめて一滴でものみたいのだがまつごの水」
 十月、画家は顔なじみのいる元の相に戻って空き家を探し、以前増尾のアトリエに道を
つけるとき田圃の一部を提供してくれた伊藤辰五郎宛に次のように報告している。
 「まだ引っ越し先が見つからずしかたなく相変わらずまごまごしています。先日柏の方
に行ってきました。九二園茶店によって尋ねて見ましたが小生も知っている絵描きさんが
居たという中家は寺ではなく(以下中略…)。熊野神社前に空き家が二軒見えましたがそ
こは道路を新設するために引っ越したので最早それも無くなっている(…)。それから出
張所の方に行って高台上の小学校下から入った処にある寺を空室があるようだから尋ねて
見ましたら(…)その寺の前通りに花屋があってその横を入った処に博兵衛さんという畳屋がありその二階が空いていて(…)その畳屋さんをさがしてみましたが分からなくなりました(…)。明日は千葉の先の方茂原の辺りをさがしに行って(…)房州の方だめでし
たら、あの畳屋さんをもう一度行って見ましょう。林三太郎(立野の画家さん)氏に聞け
ば柏の空き家の事よく分かりそうですがあの人会社を作って重役になり南柏の方へ近日引
っ越す事になっているとの事、九二園で聞きましたので今行っても会えないかも知れませ
ん」。(昭和四十六年十月二十四日)。 
 寺はだめ、畳屋は見つからず、有力者を尋ねたが移転中だったり、房総にも足を伸ばし
てみょうともある。ここにきてまた城にたどり着けなかった測量士の徒労感が私に伝わっ
てくるが、高島さんもできれば避けて通りたい漂泊人生の通路だったにちがいない。
 長い伝統をもつ永平寺の高僧がテレビで「すべての基本は形じゃ」と作家のインタビュ
ーに答えていた。苗から遮断された自塀の中で、風邪をひけば控えの僧たちが調薬し、食事も厨房で吟味して出される。こうして早朝に起き、座禅を組み、行事やしきたりに従
って生活する。これはこれで大変なことだが、少なくとも、ここにはすでに用意された形
があり、形に則して行動すれば済む。
 しかし同じ高齢の野十郎はオリンピック開催や団地の建設で立ち退きを強いられ、手を
こまぬいていれば路上に放りだされる。画家は国の行政や企業や土地所有者や業者と闘い、生活の形の枠組みと基礎を自分の手で獲得しなければならなかった。
 形の基礎を得たあとでも、さらに寺院の修行よりはゆるやかな隠遁生活のほうが難しい。形は束縛や制度と結びついているので、寺院の修行者は厳しい形で逆に守られているが、遁世者は自由と不自由(ストイシズム)との間の通路を自分の判断で往来しなければならない。事体をささえる台車だけを工場に注文するようなわけにはいかぬ。画家がときとして頑な姿勢を示すことがあったのも、あれは自分の形の弛みを制御するための反作用としてブレーキを踏んでいたのだ。これも俗世の住人たちには理解しがたい。なかには人間が小さいとか狛介だとか批判する者が私もふくめていると思うが、それは大きな誤解だ。私は高島野十郎と同じやり方で形を造ることを想像してみるが、とてもできっこない。
 それでも野十郎は辰五郎氏宛の手紙をこう楽観的に締めくくっている。
「とにかく引っ越し先が見付かったらお伺いしようと思っていました。武藤さんにも今度
お伺いしてみましょう。あの方は日曜日でなくてはだめでしょうからこの次の日曜頃にな
りそうです。柿とすすきの絵もいずれ出来ましょう。海の二〇号をやっと描き上げた処で
す。山辺の柿の絵ここしきりに考えていた処です。秩父の山をずい分歩き廻って丁度柿が
色づいており、私の昔から好きな画題でしきりに心引かれ簡単なスケッチや写真など沢山
撮ってきています。何か出来るかもしれません。ここ高松の室の隣にも柿が色づいていて
室から見えます」。
 つまり野十郎はアパートでも画業をつづけていた。さらにアトリエ建築のときに写真現
像用の暗室についての言及があり、また大正八年(一九一九)に小西本店(現コニカ)が
発売した「スペシャル・リリー」という蛇腹式の高級カメラを所有していた。つまり右の
手紙にあるように画家はカメラを活用していた。

『過激な隠遁~高島野十郎評伝』 求龍社


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