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医史跡を巡る旅 №88 [雑木林の四季]

江戸のコレラ~安政五年 再び富士宮、吉原宿と原宿

         保健衛生監視員  小川 雄

1回お休みしてしまいました。
前回の記事の時点、一月前に比べて新型コロナウイルス感染状況も、ワクチン接種状況も全く好転していません。それどころか、まん延防止等重点措置は全く功を奏さず、遅かれ早かれとは思っていましたが、3度目の緊急事態宣言が発令され、そして延長され、対象地域は拡大されました。
拡大状況としては、関西圏、首都圏ばかりでなく全国的に感染者が増加し、更に変異株の占める割合が増え、呼応するかのように重症者も過去最高を更新しています。
次回は、ひとつでも明るい見通しを書ければよいのですが…(死亡フラグ?)

あだしごとはさておき。
安政5年(1808)の駿州大宮、現在の静岡県富士宮市のお話の続きです。
相次ぐ大地震などの天災に加え、西欧諸国からの頻繁な砲艦外交と、その軍艦が持ち込んだ疫病。為政者はほぼ無策で、とった対応も後手後手。新興感染症に対して医療は無力で、予防のための正確な情報も伝わらない。庶民は流言飛語に惑わされ、ただ右往左往するばかり。
いや、今の話ではないです。200年も前のことですが、とても現在の状況とよく似ていることに驚かされます。

「駿州大宮町横関本家 袖日記」

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「駿州大宮町横関本家 袖日記」 ~富士宮市教育委員会刊行

庶民の記録は、巷の噂をそのまま記しているので多少大げさだったり、真否で言ってしまえば間違っていたりすることもありますが、身の丈であり、迫真力に溢れています。なにより公の記録に比べて改竄や忖度はありません。
引用している「袖日記」は、富士宮市大宮の酒屋、横関家に残されているもので、九代弥兵衛が記したものです。富士宮は東海道からは外れていますが富士川の渡しの控え、そして東海道から甲州に抜ける街道の宿として、さらに富士登山口とともに浅間神社の門前町として栄えました。

前回までに近隣でのコレラの流行拡大に伴い、「くだ狐」や「千年モグラ」といった攘夷的発想に基づくデマゴギーの流布と、その結果導かれた「大口真神」という強力な信仰対象の勧請までをご紹介しました。この一連のプロセスは、この後ご紹介する各地の状況に共通するものです。実はこの流れにはもう一段、流行拡大とともに、まずは日頃信心する神仏を頼る、という過程があります。

「浅間大社 大鳥居」

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「浅間大社 大鳥居」 ~静岡県富士宮市宮町

袖日記の8月2日の記載に、以下の一文があります。

八月二日甲辰 五黄 晴天 蒸
今日丁内中浅間様へ御詣り
「今夜丁内〆切題目。往来に坐して三カ所ニて唱ル
「朔日夜 夜前いづミヤ又兵衛殿妻およし殿 流行病ニて死去
「田宿ゟ(より)今日葬式二ツ通る (略)
夕方もみきり治助死去 年四十才 (略)
「新ヤ下男病気センキ 天間ゟ迎ニ来駕ごニて行
「川原宿孫右衛門殿母死去
「西新町ニて石伺ひ源右エ門老人死去 (略)

富士宮市の名前の通り、市の中心部には富士山本宮浅間大社があります。活火山である富士山を鎮めるために、坂上田村麻呂が大同元年(806)、この地に社殿を営んだと伝えられる大変由緒と歴史のある神社です。富士山信仰の広まりとともに、全国に富士浅間神社がありますが、こちらが起源とされます。

「浅間大社 本殿」

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「浅間大社 本殿」 ~静岡県富士宮市宮町

これだけ大きな神社が近くにあるわけですから、まずはこちらを奉ずるのが心情というものでしょう。さらに町内総出で、路上において題目、南無妙法蓮華経も唱えます。ところが相手は手強い新興の感染症。続く同日の記載には延々と訃報が書き綴られます。

「庚申塔 安政五年」

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「庚申塔 安政五年」 ~静岡県富士宮市

また数日後にはこう綴られています。

八月七日己酉 九紫 曇
「丁内道祖神を祭 御宮繕ひニ付百文遣ス。(後略)

道祖神を祀る風習は各地にありますが、中部から関東にかけて多く見られ、特にここ富士宮には実に多くの道祖神が現存します。確認されたその数395基。形状も多彩で、達磨に似た形状の自然石を用いたおでこ道祖神、男女両神が徳利と杯を持つ祝言道祖神など、この地域に独特な形状のものがあります。
道の神として旅路の安全を、さらに辻々で外部から疫病を始めとする災いが侵入するのを防ぐ塞の神として、また夫婦円満や子孫繁栄の福神として人々に崇められた道祖神ですが、とくに疫病の流行時には集落を疫病神から護る役割を期待されました。
富士宮市内には、安政五年に建立された道祖神が何基かあり、コレラ流行の鎮静と犠牲者への慰霊をこめて新たに建てられた可能性があります。

さて、東海道筋に戻って東上を続けましょう。
袖日記の中でも度々触れられている吉原宿では、特にコレラ患者の発生が多く韮山代官所に残された記録では、人口二千人余りのうち、およそ一割に当たる213人が病死したと記録されています。残念なことに、吉原にはこの災厄に関する記録が残されていません。吉原宿自体が海岸に近く、津波や高潮、台風にたびたび襲われたため、記録が散逸してしまったのかもしれません。ただ6月に、山車や神輿を繰り出す吉原祇園祭が盛大に行われます。もともと祇園祭は疫病退散を目的として行われるお祭りです。

吉原宿の隣が、原宿。大きな被害を出した吉原宿に近いので、さぞかし悲惨な状況だったかと思ったら、意外な事実が判明します。
原宿問屋渡辺八郎左衛門が残した日記を参照して、大宮町同様プロセスを追ってみます。ちなみにここでいう問屋とは、商人の意味ではなく、宿場における責任者を指します。

「原宿問屋渡辺八郎左衛門日記」

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「原宿問屋渡辺八郎左衛門日記」 ~沼津資料集成6 沼津市立駿河図書館刊行

八朔癸卯 晴
(略)俗ニ曰三日ころりと言難病流行致東西吉原加島邊沼津邊伊豆相模え掛死去人数多御座候処當驛之儀ハ幸ニ免れ候ニ付當七月廿八日夜より東西両町ニて産神賽前ニ真木を篝ニ焚、行燈掛祭禮同様ニ町内中参詣いたし候附て夕刻より町内念佛講中百萬遍繰廻り夜ニ入題目信者講中大勢昌源寺御真筆御参町内中太鼓打題目修行之事

「浅間神社 参道」

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「浅間神社 参道」 ~静岡県沼津市原

「産神」とは、浅間神社のことと考えられます。原宿は東町と西町にわかれており、宿の産土神たる浅間神社はそれぞれの町の氏子から成り立っていました。迫りくる疫病の噂に浮足立ち、慌てて地の神の祭礼を行おうとするジタバタがよくわかります。

「浅間神社」

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「浅間神社」 ~静岡県沼津市原

ちなみにこちらの浅間神社、東海道に背を向けて立っています。これはもともと集落のあった場所がこの社の正面、東海道線の海側にあったからと考えられます。
さらに神社詣でばかりでなく、昌源寺の講中が太鼓を打ち鳴らし、南妙法蓮華経を唱えながら練り歩くさまが記されます。

「昌原寺」

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「昌原寺」 ~静岡県沼津市原

二日甲辰霽
夕刻より念佛同断夜ニ入題目講中同様之事また西念寺隠居念佛講中引連犬道修行之事

「西念寺」

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「西念寺」 ~静岡県沼津市原

翌日には昌源寺近くの西念寺も加わります。先のプロセス、「日頃信心する神仏を頼る」には祭礼を執り行い、神輿を担ぎだして町内を練り歩き、祭囃子を囃し立てる、あるいは念仏や題目を唱えて練り歩くという行為が含まれます。騒ぎ立てて、疫病神を追い出すという尤もらしい理屈をこじつけますが、疫病を恐れ、息を潜めて閉じこもっていた民衆の鬱憤が一気に爆発したものとも言えます。現在まさに繁華街で見られる、自粛疲れの反動での路上飲みのバカ騒ぎと共通するものがあります。

ところが六日になると「吉原宿之流行変病誠ニ多く候」と伝わり、街道の人流にも影響が出てきます。天候不順も重なり、通常ではあまり大名家が宿泊しない原宿も、受け入れざるを得なくなります。これが後に不幸を呼びます。

八日庚戌晴
(略)御大老伊井掃部守様御家中例之変病ニて東町ちゃわんや喜兵衛方ニ泊り候一件ニて八ツ時頃引取申候

いよいよ宿場内にも感染者が入ってきました。従来の神仏にすがるだけでは不安な民衆は、新らたな力を求めます。大宮町同様にお犬様のご登場を願うこととなります。

十三日乙卯晴
町内一同より武州三峰山え代参遣し申候権右衛門源兵衛両人出立致し候

ところがいよいよ住人の中から犠牲者が出ます。

十七日己未曇五ツ半時より晴
(略)ふじや縫右衛門殿方格兵衛殿死去題目講中一人も立會不申尤も親類も同断之よし雲助弐人え金壱両ツゝ与ヘ取形付爲致候趣哀れ之事ニ御座候

故人は題目講中に加わっていたようですが、弔いにはその講中からは誰も参加せず、親戚も寄らず、雲助に金で頼んで取り片付けさせたことが、あまりにも哀れであると綴ります。昨今の新型コロナで亡くなった方の葬儀を彷彿とさせる記述です。

几帳面な人々がいたおかげで記録がつくられ、代々その記録を受け継いだ人々がいて、それを郷土史家が明らかにしてくれる。これも立派な「歴史」です。そして歴史は多くの教訓と示唆に富んでいます。
ドイツの鉄血宰相ビスマルクは、「愚者は自分の経験に学び、賢者は他人の経験(歴史)に学ぶ」と述べたそうですが、経験にも歴史にも学ばずに、失敗を繰り返す者のことを何と呼べばよいのでしょうか。


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