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過激な隠遁~高島野十郎評伝 №50 [文芸美術の森]

第八章 晩年柏のアトリエ

   早稲田大学名誉教授  川崎 浹

漂泊人生の通路

 『小説なりゆくなれのはて』のアトリエ立ち退き事件が解決した昭和四十五年(一九七〇)の十二月、高島さんは、ひとまず仮住まいして、終の棲家をさがすことにした。私の母が通う教会の付属幼稚園の園長さんがアパートを経営していたので、高島さんはそこに部屋を借りた。画家の藁のベッドはふつうの住居では使用に耐えなかったので、布団やなにやかやが必要となり、私の友人の車で運んだ。新築同様のこぎれいな部屋だった。
 立ち退き事件のせいで秋の個展は開けないまま、前後まるまる七年間、昭和四十一年(一九六七)三月から四十九年(一九七四)二月までを過ごすことになった。もし立ち退き事件がなければ画家は増尾のアトリエでさらに数十点の佳作、名品を描いていただろう。これは高島野十郎一個人ではなく、貴重な文化財遺失の問題であり、いまも変わらぬ企業のエゴや無定見な開発を黙認する行政・司法や政治家たちの問題である。東京都内でさえ自然な緑の里山が年々消えてゆく現象は、増尾のアトリエ立ち退き事件以来、解消されることがない。
 話は戻るが、企業側が高島さんのアトリエ移転に積極的に立ち入り始めた昭和四十四年(一九六九)四月、増尾で女医の武藤ゆうさんが歯科医院を開業している。診療者から「すばらしい絵かきさんがいる」と聞いて、絵の好きな彼女がアトリエを訪れ、秋空を背にした枝先の真っ赤な柿が措かれている絵につよい印象をうけている。
 彼女は翌週夫の重喜をつれて行った。重喜さんは石川島播磨重工業のエンジニアで、ガストン・バシユラールの『蝋燭の焔』などを読み、画家の話し相手になった。高島さんは旅先から武藤氏にこんな手紙を出している。

 「京都は妙に心の袖を引く。行って見て帰って来ればすぐに行きたくなると言っても別に行きたい処はない。駅について何の気もなく自然に足の向かう処はきまっている。東山長楽寺の石段を登ってだれも居ない大きくもない閉め切られたお堂の前で一礼し横の鐘楼に行ってその釣鐘をつき鳴らしその響が京都市街の上空に渡って行った事をたしかめればそれで安心又駅まで下りて行きそれでおしまい。丁度出ようとしている東行きの汽車に飛び乗る。
 今日はまだ日も高いので大和路行きの電車に乗ってみる。新の口との叫び声にああそうかと急いで下車、駅から遠くない村の古いお寺で梅川忠兵衛の墓をさがしだす。来る人もなさそうで荒れてはいるがどうやらいささか大きな墓。住職の話では今年から中学の教科書に新の口村を出しているそうでこれから若い男女の来参がふえるだろぅと喜んでいた。暫く止んでいた梅雨がふり出してお線香の火が消えるので傘を差しかけていたがやっぱりぬれるままにしておく。その線香の煙が消えゆく先そのはるか彼方に青野山が雨にかすんでかすかに見える。大降りになった梅雨の中を急いで駅に行き吉野行きに乗る。青野山は花時でもなく紅葉の期でもないのでひっそりしている。遊覧客の影も殆どなく旅館や店は戸を閉め切ったまま、どこか奥の宿をさがして一夜を過ごすに好適、夜になると外に一つの燈火も見えず何の物音も聞こえてこず窓の電気を消すと窓の外黒い峯の上に十三夜の月だけが独り輝いている。どこからかキツネのつづみの音が聞こえて来るから心をすましていたらいつの間にか自分がねむりに落ちてしまった。
 ここは元来役の行者達が庵室を開いた処、この奥にはその行者の修験道場大峯険峯が連なっている。その先一たん熊野灘に落ちてその先に海ははてもなし。
 民衆は春は花秋は紅葉と集り来たって狂酔しているがそれはたぶらかされの空しい事、ここの冬山深雪の中に独り置き残された自拍子が打ち鳴らす鼓の音の狂乱が岩や樹々にしみ込んでこりかたまったのが春秋の期を得て咲き出すまでの事、ここのさくらは皆な白っぽい、陽色でない。
 役の小角はお母さんを鉢にのせてはてしない飛行に去って行ったそうだが海を越え海上冥土と過ぎアンドロメダの渦巻きに乗ったと思ってふと下を見るとそこは麓の久寺の上であった。そこでそっと鉢を下ろして据えたのがその寺の多宝塔、その塔女性の多宝不可思議の業を色々に示現しつづけて行き、寺の横を流れる小川の岸で小娘に洗濯させ雲の上の久米仙を射落としたり何とかかんとか。空海はその塔の下を掘ってみて大毘盧遮那成仏神変加持経を得て真言密教を開く事となる。
 吉野大峯高野は同じ一連の山系、久米寺は高野の根本道場
 南無大師遍照金剛」

 近年私は吉野山の桜をいちどは見たいと叶わぬ夢のつもりでいたが、春秋の花や紅葉はじつは冬の深雪の化粧にすぎないと知って、心が収まった。

『過激な隠遁~高島弥十郎評伝』 求龍社


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