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西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い」 №57 [文芸美術の森]

                        歌川広重≪東海道五十三次≫シリーズ
            美術ジャーナリスト  斎藤陽一
                            第8回 「原・朝之富士」

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≪一転して朝の情景に≫

 前回の「沼津黄昏図」(第13図)の次に続くのが、この「原・朝之富士」(第14図)。沼津の夜景から一転して、晴れ渡った朝の光景となり、広重の場面転換は鮮やかです。このように広重は「東海道五十三次」シリーズを、「連続性」と「逆転性」を意識しながら制作しています。

 この原の宿あたりでは、ご覧のように雄大な富士山を眺めることが出来ます。現代の私たちも、東京から新幹線に乗り、京都や大阪に向かう時、右側に富士山が見えると何だか嬉しくなりますが、三島から沼津にかけて富士山が見えないところがありますね。東海道を西に旅する人も同じような気持ちだったのではないでしょうか。
 三島から沼津の東あたりの地形的に低い地域では、富士山は愛鷹山に隠れて見えないので、「富士隠れ」と呼ばれていました。ここに描かれた「原」は、沼津から1里半(約6km)ほど西に行ったところなので、ここに来ると、雄大な富士の姿を仰ぎ見ることが出来ます。
 広重は、画面の時間を「晴れやかな朝」に設定することで、その爽快な気分を表現しています。

 旅人と富士山との間にあるのは、「浮島ヶ原」という湿原です。現在は「浮島ヶ原自然公園」になっていますが、古来、富士山を背景にした風光明媚な場所として「歌枕」の地にもなっていました。ここを詠んだ西行の歌を紹介しておきます。

  いつとなき思ひは富士の煙にて起き伏す床(とこ)床や浮島が原   西 行

 (いつまでも思い焦がれるあの人への思いは、絶えることのない富士の煙のよう・・・私が起き伏しするところは浮島が原のように涙に濡れている。)

≪人物の描き分け≫

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 この絵では、浮島ケ原に足を止めて、富士を見ながら休んでいる3人の旅人が描かれています。旅をする二人の女と荷物をかつぐ供の男です。女たちは母娘のように見えます。年配の女性は煙管(きせる)を持っていますから、素晴らしい風景を見ながら一服しているのでしょう。ここは「歌枕」の地なので、広重は定番通り、二羽の鶴を配しています。

 広重はこの絵には「旅する女たち」を登場させました。この連作では、各図ごとに登場する人物もさまざまに描き分けられ、大人から子ども、男と女、武士から町人、農民と、ヴァラエティに富んでいます。

≪画面突き破りの構図≫

 広重は、朝日を浴びてほのかに赤く染まる富士山頂を思い切って画面の枠から突き出す、という構図にして、枠に納まり切れないほどの壮大さと、それを仰ぎ見る気分を表現しています。
 それにしても、この富士山のかたち、先輩・北斎描く「富嶽三十六景」中の「凱風快晴」(赤富士」や「山下白雨」(黒富士)とそっくりですね。

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 葛飾北斎(1760~1849)が「富嶽三十六景」シリーズを刊行したのが天保2年から3年にかけて、北斎71歳ごろのことです。このシリーズは、爆発的な大ヒットとなりました。
 37歳年下の歌川広重(1797~1858)が「東海道五十三次」シリーズを世に出したのが、天保3年から4年。当時36~37歳。
 すなわち、北斎の「富嶽三十六景」と広重の「東海道五十三次」の刊行は、わずかに数年の違いしかない。ほとんど同時期と言ってもいい。
 ですから、後輩の広重は、当然ながら、北斎の「富嶽三十六景」を意識していたに違いありません。彼は、当時、浮世絵の大家となっていた北斎を尊敬していたようですし、その影響も受けています。一方では、今や自分の得意分野となった「名所絵」(風景画)では、先輩を乗り越えようというライバル心もあったに違いありません。
 枠を突き出して描いた富士山の姿には、広重のそんな思いも感じられます。

 「原・朝之富士」(第14図)の次は、吉原宿の手前あたりで一か所だけ富士山が左手に見える場所があり、そこを描いた「吉原左富士」(第15図)です。この絵には馬に乗って旅する子どもたちが描かれているのですが、絵だけを下に示すにとどめて解説は省略します。

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 次回は、「蒲原夜之雪」(第16図)を紹介します。

                                                                  





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