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梟翁夜話 №86 [雑木林の四季]

「横になった芝浜」

           翻訳家  島村泰治

古典落語にこんな噺がある。

棒手振りの魚屋が、酒に溺れて身上を傾ける。ある年の暮れ、賢い女房に上手く仕組まれて浜に出た奴さん、八十両入りの財布を拾って帰る。またも賢い女房、企んで夢で拾ったと言ひ包めて亭主の尻を叩き浜へ追ひ返す。

酒を絶って魚屋稼業に精を出す奴さん、表通りに店を出すまで稼ぎまくる。三年後の年の暮れ、賢い女房が実はと拾った財布を見せる。酒っ気がなくなってゐた奴さん、聞いて鼻白んだものの、もういいからお飲みよとの女房の奨めに、それじゃと3年目の盃を捧げ酒に無沙汰を詫びて、いざ口に持っていくが、

「いや、止めとこ。また夢になっちゃいけねえから」

粋なオチが身上のこの噺、ご存知「芝浜」だ。名人三代目桂三木助の十八番で、芝の浜に日が上がる情景描写は、その水際だった話芸の凄さから他の噺家たちが怖気付いてこの噺を語らないといふ神話を生んだものだ。

その古典落語の真髄「芝浜」を英語の語り物に仕上げた奴がゐる。他ならぬこの筆者だ。仕上げるからには訳があり、それなりに成算もある。あるからこそ、「芝浜」の前後に名だたる古典落語の名作を横にして(英訳して)広く世界の落語好きのご機嫌を伺っている。

何を大仰なと腐す前に、筆者がそう思う根拠をお聴きくだされ。

まず原点に「英語は習うより慣れろ」というテーゼを認識願ひたいのだ。卑近な例で大相撲、碧山や照ノ富士など外つ国の力士の日本語の見事さに感じいらぬものはいなからう。きめの細かい言ひ回しから語り口まで、日本人かと聞き紛ふ日本語を操るのに驚く。あれは文句なしに学んだものではない。学んだのではなくひたすら慣れて覚えたものだ。

話の流れで、照ノ富士をネタに話を進めよう。序二段まで落ちて這ひ上がり、何と、華の大関の地位まで戻ってきた怪物である。落ちて這ひ戻った過程で辿った多難な道は想像を絶する。苦労の日々は汗と涙の日本語漬け、習うも覚えるもない、土俵の砂ごと擦り込まれた日本語は伊達な日本人の生半可な日本語をはるかに超えた「生活臭のある生の生活語」だったに違いない。相撲を落語に例へるならば、照ノ富士は落語特有な言葉を知り尽くした噺家になれる最右翼だ。

筆者が営々と古典落語を横にしている理由《わけ》がここにある。英語圏の潜在噺家向けに「生活臭のある生の生活語」を駆使した台本を創り、何時の日か、彼らの口から語られる古典落語の出現を夢見る、という想ひに凝り固まったのである。

さて、未来の外つ国噺家たちのために、一席伺えるような「生活臭のある生の英語」のネタ本が創れるか。筆者の夢はそこにある。圓朝の「心眼」を皮切りに、「井戸の茶碗」、「火焔太鼓」、「宿屋の富」と来て今「芝浜」。これから先さらに十二席を積み重ねる所存だ。

眼を閉じれば、わが身は疾うに世に亡きある未来、落語の粋に惚れ込んだ外つ国の噺家が、この中から「芝浜」いや、どれでもいい、好きな噺を語り込み、どこやら外つ国の寄席でうかがってる姿が浮かぶ。落語好きの外つ国人が満ち足りた様子で聞き惚れる様子も。

何の因果か英語の絡繰を覗き見たが故の、これは果てぬ夢、頃もよし、ひとひらの春の夢か



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