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多摩のむかし道と伝説の旅 №60 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

                          -狭山丘陵南麓の根通り道を行く-1

                原田環爾

 東京都北部に連なる東村山市・東大和市・武蔵村山市・瑞穂町は、埼玉県の所沢市・入間市と接しており、その都県境に東西十数キロにわたってなだらかな丘が横たわっている。比高差僅か100mにも満たないこの丘は狭山丘陵と称し、古くは村山三里などと呼ばれた。丘陵は広大な雑木林で覆われ、玉川上水や野火止用水が出来る前までは、茫漠たる不毛の武蔵野台地にあってここだけは緑をたたえた潤いのあるオアシスだったという。その狭山丘陵の南麓を街道が走っている。志木街道と青梅街道である。街道沿いの山裾にはいくつもの集落があり、それらの集落と集落を結ぶ里道すなわち根通り道が入り組んでいる。青梅街道が整備される以前の青梅道はこれら根通り道がその役割を担っていたと筆者は考えている。根通り道沿いには大小様々な社寺がいくつも佇み、ここが東京かと見紛うほどの鄙びた里風景を見せてくれている。今回はそんな狭山丘陵南麓の街道界隈に枝分かれしている根通り道を辿り、村山三里の里風景を楽しみたいと思う。
 ここでは西武多摩湖線武蔵大和駅から東大和市域の志木街道に入り、これを西へ進みつつ街道から分岐する丘陵南麓の根通り道に入って散在する社寺を巡る。奈良橋に至れば青梅街道に入り、同様に街道から枝分かれする根通り道に入って、散在する社寺を巡りながら芋窪に至る。次いで谷戸川に架かる大橋辺りから武蔵村山市域の青梅街道に入り、これを西へ進み、中藤、横田、三ツ木、岸の根通り道を辿る。この後は殿ヶ谷、石畑の里道に点在する鄙びた社寺を巡りながら、終着点箱根ヶ崎駅へ至るものとする。

 まずは東大和市域の丘陵南麓の根通り道を巡ることにする。

狭山丘陵1-1.jpg

 武蔵大和駅を出て駅前の志木街道に入る。埼玉の志木へ通じる道であることからこの名がある。街道を西へ向か狭山丘陵1-2.jpgうとすぐ交差点「武蔵大和駅西」にくる。いささか変形した五差路になっている。手前の小道は武蔵境から伸びてきた多摩湖自転車道だ。交差点を横切り、緩やかに右方向へカーブしてゆく道が志木街道だ。程なく沿道右にこじんまりした堂宇が見える。清水観音堂という。狭山三十三観音霊場の第十五番札所である。天明8年(1788)の創建と言われる。本尊は行基作の像高約45cmの聖観音菩薩立像である。境内の中にはいくつかの石仏石塔があり、その一つに観音堂の裏を流れる前川に架けた清水本村橋の天保4年(1833)造立の石橋供養塔がある。狭山丘陵1-3.jpg
 更に街道を少し進むと道は大きく左へカーブする。そこに左に入る街路の角地に小さな地蔵堂がある。伝兵衛地蔵という。伝兵衛という人が神隠しにあった分家の子供が帰ってくるように造立したという。子供は無事見つかったことから霊験あらたかな地蔵として信仰を集めたという。
 続いて沿道右に豆腐屋があり、その左横の路地を北へ入る。街道裏の静かな集落の道を道なりに進むと、程なく丁字路帯の北西角地にこじんまりした狭山神社がある。いつ創建されたかは詳らかでない。元は天宮大明神と呼ばれていたといい、大正時代狭山丘陵1-4.jpgには今の貯水池内にあった御霊神社もここに移され合祀されたという。特に特徴もない平凡な神社である。筋向いの南西角地には狭山公民館がある。公民館を右に見て丁字路帯の南の道を採ると再び丁字路でぶつかる。そこを左へ時計回りに回り込むと右手に円乗院という綺麗な寺の前に来る。鐘楼門を構えた実に立派な寺である。真言宗智山派の寺で正式には愛宕山医王寺円乗院東円坊と称す。本尊の不動明王狭山丘陵1-5.jpgほか薬師如来、如意輪観音が祀られている。明治17年の火災で庫裡、本堂を焼失し古記録が失われ創建当時の事情は定かでないが、寺院の歴代塔には平治元年(1159)寂の賢誉法印を始祖とするとの記録があり、また鎌倉時代の板碑が残っていることから、かなり古い寺と考えられている。鐘楼門は寛延2年(1749)に建てられたという。多摩四国八十八ヶ所霊場や武蔵野三十三観音霊場の札所にもなっている。境内には仏足石もある。
 円乗院を後にし南へ下って再び元の志木街道に復帰する。続狭山丘陵1-6.jpgけて街道を西へ進み次に高木神社を目指す。コンビニを右にやり過ごし尾崎商店を過ぎた辺りで左手斜めに入る路地を採って迷路のような集落の中の小道を縫って向かう。程なく火の見櫓の建つ児童公園の前に出る。公園の北側に高木神社の社務所があり西向こうの小階段を上がればそこが高木神社の境内で、高木神社と塩釜神社が並んで建っている。境内には祭礼に奉納されたという「高木の獅子舞」の碑が立っている。神社の創建年代は詳らかでないが、本堂は宝暦12年(1762)に建てられたという。祭神は高皇産霊神。元は尉殿権現と呼ばれ、明楽寺という寺が別当であったが、明治の神仏分離令で寺は廃れ、高木神社と呼ばれるようになったという。ちなみに明楽寺は社務所の辺りにあったといい、先の円乗院の住職の隠居寺であったという。また同境内に建つ塩釜神社は江戸時代に尾崎金左衛門という人が塩釜市の本社から持ち帰ったお札を屋敷に祀っていたものを、明治10年にこの地に移したという。安産の神様である。
 ところでこの高木神社に隣接する公園はかつての高木村五ヶ村連合戸長役場跡という。明治17年、町村制度改正により高木・清水・狭山・奈良橋・蔵敷・芋窪の6ヶ村が作った連合組織で現在の東大和市の原型となった。当時の役場の名残としては書類庫として使われた土蔵が社務所の左隣に残されている。
 ついでながら公園手前の丘のある角地に小さな地蔵堂がある。松っこごれ地蔵という。松っこごれとは松ぼっく狭山丘陵1-7.jpgりのことだ。いぼ取りに御利益のある地蔵といい、願いがかなうと松ぼっくりを奉納したことからこの名がある。元は志木街道沿いにあったが道路整備で移設されたという。また松っこごれ地蔵のすぐ前には大日如来と6地蔵の石仏が、何故か青天井のまま雑草に埋もれる様に立っている。廃寺となった明楽寺のものと思われる。土地の人の話ではこの小丘には明楽寺の墓地があったという。(つづく)




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