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西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い」 №56 [文芸美術の森]

                    歌川広重≪東海道五十三次≫シリーズ

        美術ジャーナリスト  斎藤陽一

                         第7回 「沼津黄昏図」

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≪一転して夜の情景に≫

 前回の「三島朝霧」図では、“早朝の朝霧”の中、旅立つ人たちの姿が描かれていましたが、今回の「沼津黄昏図」では一転して“夜の情景”になります。
 広重は、このシリーズの全体構想の中で、「連続性」とともに「逆転性」ということも試みている、ということを先に申し上げましたが、その中には、前の絵と次の絵とに朝・昼・夜の変化をつける、ということもやっています。

 広重の夜景図も、しみじみとした情趣があり、なかなかいい。

 この絵は「黄昏図:たそがれず」と題されてはいますが、既に日は沈み、空には満月が浮かんでいます。そんな夜のとばりが降り始めた頃、三人の旅人がとぼとぼと歩んでいきます。朝早くに前夜の宿を出発して、こんな時間まで歩き続けてきたのです。

≪夜の旅情と安息のイメージ≫

56-2.jpg 天狗の面を背負っている白装束の旅人は讃岐の金毘羅参りに向かう男。天狗の面は、金毘羅大権現に奉納するものです。
 この男は、町内の他の信者たちからお賽銭や米などの奉納物を預かり、皆を代表して金毘羅さんに参詣する役目です。
 その前を行く女と少女の二人連れは、「勧進比丘尼:かんじんびくに」でしょう。
 女が手にしている柄杓(ひしゃく)は、勧進の銭を受け取るための「勧進柄杓」(かんじんびしゃく)です。
 少女は、女の弟子かも知れないし、あるいは娘かも知れません。「勧進比丘尼」は、尼の姿で諸国を巡り歩き、その道中で歌を歌ったり、経文を唱えたりして勧進をおこなう者のことで、この二人連れも、何か事情があって、このような姿でさすらいながら生きているのでしょう。
 男も、女二人連れも、みな“うしろ姿”で描かれ、顔は見えません。それによって、黙々と疲れた足を運び、暗い夜道をたどるときの哀切感を表現しています。

 旅人たちが顔を見せない中、赤い天狗の面だけがこちらをにらんでいます。これは、暗い夜道で突然天狗に出くわしたかのような、ぎょっとする感覚を見るものに与えますね。広重が意図的にやった演出でしょう。
 「黄昏:たそがれ」の語源をたどると、夕方うす暗くなり「誰(た)そ、彼は」と人の顔の見分け難くなった時分を言います。その暗がりの中で、天狗がこちらをにらんでいるのです。そう言えば、「黄昏どき」はまた、なぜか禍(わざわい)が起こりそうな気分にさせるところから、古人は「大禍時:おおまがとき」などとも言いました。これが転じて「逢魔が時:おうまがとき」とも言ったりしました。「魔物が出てきそうな時刻」ということで、おそらく広重はそのことを意識して、薄暗がりの中、「天狗」の面をこちら向きに大きく描いたのでしょう。

 旅人たちがたどる夜道の彼方には、月の光に照らされて、宿場の家並みが浮かび上がっています。三人には、もう町が見えている。「あそこに辿りつけば、安息が待っている。あと一息だ。頑張ろう」と心の中でつぶやいていることでしょう。月光に浮かぶ宿場の家並みには、ホッとするような安息のイメージが託されています。

 この絵は、そのような夜の旅情を描いて見事であり、「広重の風景画には抒情性がある」と言われるのも、こんなところなのです。
 前回の「三島朝霧」図に引き続いて、今回も一句を引用して締めくくりたいと思います。広重が敬愛していたと言われる芭蕉の句です。

    くたびれて宿借るころや藤の花    松尾芭蕉

 次回は、「沼津黄昏図」(第13図)に続く「原・朝之富士」(第14図)を紹介します。

                                                                 





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