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医史跡を巡る旅 №87 [雑木林の四季]

 江戸のコレラ~安政五年 浜松、そして富士宮

           保健衛生監視員  小川 雄

医療従事者のワクチン接種も終わらず、相変わらずワクチン輸入の確実な目途も不透明なままですが、なし崩し的に高齢者へのワクチン接種が、一部の自治体で開始されました。政府は予定通り実施できると言い張りますが、今回の都道府県への配布は100箱だけです。都道府県へは箱単位の発送で、1箱には195バイアル(瓶)、1バイアルあたり注射5回分となりますから、1箱975回分です。つまり開始当初に打てるのは、限られた自治体の合計19,500人だけですから、先行的、試行的な意味合いが強いと言えます。次の配布分は今週後半に500箱、来週後半500箱、今月中に約1700箱というペースです。
1回目の接種後2週間たったら、2回目を接種しなければならないので、新規に打てる人数は制限されることになります。したがって全ての市町村に1箱以上配布されるのは、今月中になんとか間に合うか、どうかという計算になります。
なお医療従事者を対象としたワクチン接種は、4月9日までに49万人が2回接種迄終わっていますが、対象者は480万人とされており、まだ10分の1程度に止まっています。希望する医療従事者全員への接種完了、免疫獲得には5月一杯かかるとみられます。高齢者への注射を担当する医師がまだ接種を済ませていない、という笑えない状況が生ずることもあり得ます。会場における集団接種はもちろん、医療機関で実施する場合においても、不特定多数の対象者が集まることによる、被接種者、医療従事者の新型コロナウイルスへの感染リスクは否定できません。特に高齢者の場合、感染が重症化の懸念にもつながることから、ワクチン接種そのものが、クラスター機会となることだけは絶対に阻止しなければなりません。現場の混乱を避けるためにも、単なる人気取りともとれる高齢者への先行接種は諦め、当初定めた優先順位に従って、粛々と計画を進めるべきだったと思います。

背景となる感染拡大自体も、いよいよ暗雲垂れこめてきました。先にまん延防止等重点措置が適用された大阪において、前回示した数値がどう変わったかを見てみましょう。
4月14日時点の大阪府の発表によると、大阪モデルのモニタリング指標である新規陽性者における感染経路不明者の7日間の移動平均が601.43、直近1週間の人口10万人あたりの新規陽性者数は74.11、患者受入重症病床使用率が97.8パーセントという数字です。前回の記事、3月30日時点の数字は、それぞれ188.43、24.75、40.2パーセントでした。患者数の急増が、半月たって重症病床使用率を圧迫、すでに限界に達していることがわかります。
もちろん東京をはじめとして、首都圏も楽観できません。陽性者数の増加は勿論のこと、東京都における3月29日から4月4日におけるスクリーニングの結果、変異株の割合が、74.1パーセントに達しています(4月8日発表、東京都健康安全研究センターによるスクリーニング)。内訳はN501Y変異株が32.5パーセント、N484K単独変異株が41.8パーセントです。いわゆるイギリス株、南アフリカ株、ブラジル株がN501Y変異株で、感染力や病原性が従来株より高く、免疫も効きにくいといわれます。もう一方のN484K単独変異株は、感染性、病原性が変化した根拠は未だありませんが、理論的には従来株によって得られた免疫が、有効に働かない可能性があります。つまり再感染したり、ワクチンが効きにくくなったりするということです。なおN501Y変異株においても、南アフリカ株、ブラジル株についてはN484K変異という特徴も併せ持っており、免疫逃避能力があるといわれます。
感染力が高まれば陽性者数は増加、それを追って重症者も増え病床を圧迫します。そして免疫逃避能力が高まれば、ワクチンの効果は落ち、社会的免疫の獲得も難しくなります。

あだしごとはさておき。
安政5年5月に長崎に上陸したコレラ、前回で京都、大阪まで東上しました。ここから先の流行の広がりは、各地の史跡や記録を追いながら、詳しく見ていきたいと思います。

当時、江戸、京都間の重要な交通路といえば東海道と中山道。しかし中山道は街道全域が山道、一方の東海道はほぼ平坦ながら、大井川のような大河には技術的、戦略的な意味から架橋されず、そのうえ天下の険で、かつ往来に厳しく目を光らせる関所を擁する箱根があり、大量の物資の移動に適しているとはいえませんでした。そのため江戸後期には菱垣廻船、樽廻船といった廻船網が発達し、物流の中心となります。

次に安政5年までに、駿河国に関係した大事件をおさらいしておきます。
嘉永7年(年内に安政元年となる。1854年)3月に日米和親条約が締結され、下田が開港します。10月にはロシアのプチャーチンが条約締結を求めて下田に来航。そして11月、遠州灘を震源として、推定マグネチュード8.4の巨大地震が発生します。その32時間後に、今度は南海道沖で同規模の地震が発生。太平洋側の広い範囲に津波が襲来、沿岸部に多大な被害をもたらします。下田に停泊していたプチャーチンのディアナ号も被害を受け、修理のため戸田へ回航中に沈没します。幕府との交渉の結果、戸田において代船ヘダ号が建造されることとなり、建造中プチャーチンは安政2年3月まで日本に滞在します。安政3年7月には、ハリスがアメリカ駐日総領事として下田に到着、8月には玉泉寺に総領事館が開かれます。安政4年5月には下田協約が、安政5年6月には日米修好通商条約が締結されます。
この一時期、長崎に替わって静岡、伊豆周辺が、海外に向けての日本の表舞台に躍り出た時代ともなります。このことが、安政コレラ騒動における民衆感情にも影響してきます。

東海道名古屋以東で、最初に安政コレラの傷跡が見られるのが浜松です。浜松は天竜川の手前にあたり、夏場は川止めにあった参勤交代の一行が逗留することがあったためか、患者の発生を見たようです。浜松駅のほど近く、夢告地蔵尊が祀られています。

「夢告地蔵尊」

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「夢告地蔵尊」 ~静岡県浜松市中区中央

安政5年、コレラで亡くなった人々を供養するために建立され、その後も疫病退散に霊験あらたかとして信仰を集めたと伝えられています。

「夢告地蔵尊御堂」


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「夢告地蔵尊御堂」 ~静岡県浜松市中区中央

ところが明治となり、廃仏毀釈のあおりを受けて埋められてしまいました。大正8年(1919)になって、町民の夢枕にお地蔵さまが立ち、世に出たいと告げたため、古老の記憶に頼って掘り起こし、再びお祀りしたとの謂れから夢告地蔵と呼ばれています。その後戦災にも見舞われましたが、都度復興して現在も手厚く奉られています。
地蔵尊の明確な由来が伝わっておらず、だれが、いつ建立したのか、またこの地域の安政コレラに関する記録も明らかになっていないので、そもそも浜松に安政5年にコレラが入り込んだのがいつで、どれ程の感染者が出たかについてはわかりません。

さて浜松以東の主な宿場町を列挙してみましょう。
浜松―掛川―金谷―島田―藤枝―府中―江尻―興津―由比―蒲原―吉原―沼津―三島
安政5年の「疫癘雑話街廼夢(チマタノユメ)」には、「元来此病の起りハ上方筋より流行来り東海道一圓なれども其中に金谷嶋田の両宿甚敷又府中江尻蒲原小田原に至りとは七月二十二日より八月四日十二日の間に三百九十一人死する由」とあります。

「疫癘雑話街廼夢」


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「疫癘雑話街廼夢」 ~京都大学貴重資料デジタルアーカイブ

徳川のお膝元である駿府、宿場名でいえば府中はもちろん、街道筋の宿場街悉く患者が出ていることが記されています。前回京都で流行が始まったのが7月中旬、感染が増えだしたのが9月ではないかと述べましたが、7月下旬には駿河の国に達していたことになり、感染は単純に東海道東上し、次第に汚染地域を広げていったのではなく、飛び火的に感染を広げ、流行の波が逆に西進した可能性もあります。

東海道からは外れますが、伊豆半島を含む周辺の村々でのコレラ患者発生状況が韮山代官所の記録、「豆駿州宿村疫病にて死亡人届書」として残されています。韮山の代官は江川家が務め、幕末にはお台場や反射炉の築造で有名な江川英龍(担庵)を輩出しています。

「江川邸」

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「江川邸」 ~静岡県伊豆の国市韮山

記録によると流行開始以来、安政5年10月までの数字は以下のとおりです。

三島宿 人口4,715人 うち病死247人、病人193人
網代村(熱海市網代) 人口998人 うち病死55人
新井村(伊東市) 人口905人 うち病死32人、病人55人
熱海村(熱海市熱海) 人口1468人 うち病死36人、病人17人
吉原宿(富士市) 人口2,036人 うち病死213人、病人6人

ひたひたと自分の地域に近づく疫病の気配に対して、住民はどう対応したのでしょうか。各地の名主や商人が日記として記録を残しており、次第に高まりゆく緊張と、併せて侵入予防に奔走する様が伺い知れます。

まず吉原宿の北西にあたる駿河国富士郡大宮町、現在の富士宮市で、酒造業を営んでいた横関家の「袖日記」を見てみましょう。(幕末民衆の恐怖と妄想 高橋 敏~国立歴史民俗博物館研究報告第108集)

コレラと思われる記事の初見は七月十六日となります。

十六日 昨日ゟ近在急病人多しと申噂あり
十七日頃ゟ時候悪敷、近村急病流行、下方ニ多しと申事 
 吉原宿三日コロリと申病流行と申事、噂承る

七月二十日を過ぎると実際に被害が見聞きされるようになり、記述も具体的になってきます。

二十日 吉原 □野甚兵衛の倅善二郎死去
二十一日 吉原辺急病流行ボウショ
二十四日 昨日吉原ニて葬式十三軒ありと申事、岩本・久沢・入山瀬辺昨日九件葬式あり
  廿日吉原ニて鍬を取ながら倒死ス 廿一日富士川船頭棹を取ながら倒死ス

八月三日には病死者の具体的な数字が示され、猖獗を極める様子が記録されています。と同時に、「狐」というキーワードが出てきます。

吉原宿斗リにて三百拾八人死亡、加島郷吉原迄先月下旬・流行病ニて死するもの千六百人と申事、病人へ狐とり付もの多しと申事

善いとされる様々な手段を試すものの、感染は防げず、疫病の広がりは止まらない。まずは日頃信心する神仏や、まじないにすがります。町内ごとに題目、念仏、送り神の儀式が繰り返されますが、当然の如く感染の勢いは収まりません。
次々とつい先程まで元気であった人が急に斃れ、それも今までに見たことのない症状で、死に至る転帰も早く、死亡率も高い。その死相は苦悶に満ちて、風貌も生前とはかけ離れている。これは「なにか悪いもの」が憑いたに違いないと考えます。

東町方ノ人下ヘ行ニ高原を通る時くだ狐七ツ岩本へ下るを見たと申事
是ハ地熊と申物のよし

此度の一日ころりの急病ハくだ狐のわざなるよし評判

まずは「なにか悪いもの」に取敢えず、「くだ狐」と名前が付きました。呪術的には名前は正体、魂を縛るものと考えられますから、名前がわからないものほど怖いものはありません。さらに目撃談まで現れ、信憑性を高めます。八月十日の記載には、以下のように書かれています。

根方川尻村ニて異獣ヲとらへると申事
大サ猫のことく馬ノ貌ニテ胴ハハエ毛
足ハ人の如く赤子の足ノ如シと申事
右之ことくの怪獣ヲ蒲原宿ニても千年モグラ壱疋とると申事、十三日ニ実説聞
一説ニ異国ノ廻シ者僧トナリテ狐ヲ数千船ニノセ来り、此近海辺ヘハナツ、右怪僧三島宿ニて壱人捕ルゝト申噂あり

また八月晦日には、また新しい異獣の噂が記されます。
或ハ噂に此船ヘ外国ノ疫兎をふうじ込乗せ来り、日本へ放シ捨て逃帰りしと見へたりと申評判あり

「くだ狐」、「地熊」、「千年モグラ」ときて「疫兎」も出てきました。その上、先に挙げたように海外との係わりの多かった土地柄、外国の陰謀説までまことしやかに囁かれるようになります。

こうした妖怪もどきの異獣原因説が広まるにあたり、その対抗手段として急浮上したのが元々あった狼信仰です。日本武尊の眷属としての狼、大口真神は田畑の獣除けとして、転じて火防、盗賊除け、諸災除けとして篤く信仰されてきました。

「大口真神のお札」

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「大口真神のお札」 ~三峰神社

大口真神を祀る神社としては三峰神社、武蔵御嶽神社が有名で、参詣団体である講が組まれ、かわりばんこに代参することが、一種の当時の娯楽でもありました。特に秩父にある三峰神社は、関東一円に広く信仰され、江戸市中を始めとして各地に講が結成されていました。

「三峰神社」

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「三峰神社」 ~埼玉県秩父市三峰

もともとは御犬様拝借として、生きた犬(狼)を借り受けていましたが、借出す数が増えたために、御犬様のカゲになる御札を頂戴することになります。これは御眷属拝借として現在も続いています。

流行続く八月六日、大宮町は三峰神社の御犬様拝借を決めます。

今夜中宿ニて寄合、今日金蔵之病死ノ様あまり不思議ニ付、狐のわざニてハ無之哉と相談いたし、三峰山の生の御犬ヲ御かり申度儀神田丁・神田橋・山道へも及相談ニ皆々承知之上明朝惣代之者出立ノ積り

長くなりました。次回に続きます。




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