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医史跡を巡る旅 №86 [雑木林の四季]

江戸のコレラ~安政五年 長崎、京都そして大阪

     保健衛生監視員  小川 優

「感染拡大防止に、もはや打つ手なし」との理由で緊急事態宣言が解除されて2週間。大方の予想通り、新規感染者数は増加に転じています。感染して直ちに症状が出る、あるいは検査陽性となるわけではないですから、現在新規感染者として数字が上がってきている人々が感染したのは、宣言解除前と考えられます。解除後の人出、とくに花見など季節に誘われて、または退職、転勤、卒業そして入学、入社シーズンに伴う会食機会の増加を考えると、いつ爆発的に感染者が増えても不思議はありません。

2月末を以て先行して宣言対象地区から外された関西圏では、大阪を中心に再燃傾向が明らかで、さらにその内訳も変異型が多くを占めるようになってきました。
3月30日時点の大阪府の発表によると、大阪モデルのモニタリング指標である新規陽性者における感染経路不明者の7日間の移動平均が188.43、直近1週間の人口10万人あたりの新規陽性者数は24.75、患者受入重症病床使用率が40.2パーセントという数字です。ちなみに1週間前の数字は、それぞれ80.71、12.21、27.2パーセントです。わずか1週間の間に、濃厚接触者やクラスター以外の感染経路がわからない陽性者、そして新規陽性者(感染者)全体数はそれぞれ倍になり、その陽性者のうち発症して症状が重くなる人も増えたことで重症患者病床の圧迫度が10パーセント近く高まった、ということになります。ちなみに発症数の増加は、およそ1週間後の重症患者の増加に反映する傾向があります。
もうひとつ注意すべきは、陽性者中に占める変異株の割合です。NHKの報道による大阪府のスクリーニング検査の結果では、2月14日から20日までは13.2パーセントだったものが、3月14日から20日まででは45.2パーセントまで跳ね上がっています。
変異株については、従来型に比べて感染力が強いということを以前お話ししましたが、そればかりではなく、重症化の懸念と、ワクチン有効性の疑問もあります。

そのワクチンも、相変わらず供給予定の具体的な数字が見えてきません。優先接種以外の接種計画が決まらないというのに、薬事承認も未了なファイザー社製以外のワクチンを、本人希望により選択可能であるなどとワクチン担当大臣補佐官が先走って明言し、慌てて担当大臣が否定するドタバタもありました。モデルナ社製、アストゼネカ社製、シノバック社製ともに、まだ日本における安全性が確認されておらず、具体的な供給の目途もたっていない段階で、情報をミスリードすることは、国民のワクチンへの信頼性と、期待を裏切ることにほかなりません。
ならば早く他社のワクチンも承認してしまえばいい、すでに外国で相当数の接種実績があるにもかかわらず、なぜ日本でも独自の審査を行わなければならないのかという疑問もおありだとは思います。それは残念なことにワクチンの効きめ、安全性について、人種の差がある可能性があるからです。例えばワクチンによる重篤なアレルギー反応とされるアナフィラキシーの発生状況ですが、アメリカでは100万回あたり4.7件、イギリスでは同じく18.6~19.4件なのに対して、日本では47件(3月21日までの578,835回接種中)、100万回あたりに換算すると81件報告されています(3月26日開催、厚労省審議会資料より)。※ただし、集計の方法や症例定義が必ずしも一致しないため、単純に比較することはできない、とのコメントあり。
現在接種が進められているファイザー社のワクチンは、承認前の大規模な臨床テストがアメリカ、アルゼンチン、ブラジルで行われ、アジアの国では実施されませんでした。これらの国の臨床試験では白人が58パーセントを占め、ヒスパニック・ラテン系が26パーセント、黒人が10パーセント、アジア系にいたってはわずか5パーセントしか行われておらず、アジア系に対する十分な臨床例が集まっていなかったのです。その後国内でも臨床試験を行ってデータが集められ、安全性を確認したうえで承認に至ったという流れです。

あだしごとはさておき。
江戸のコレラ、序章文政篇に引き続き、安政篇になります。

1840年に始まり、収束までに20年を要した3回目のコレラ・パンデミックは、日本にも大きな影響をもたらします。その頃の日本は、嘉永6年(1853)にペリー来航、翌年の日米和親条約および下田条約の締結を経て、安政5年(1858)6月19日アメリカ軍艦ポーハタン号艦上での日米修好通商条約の調印と対外的に翻弄されている時期でした。また条約締結は朝廷の意志を無視する形で行われ、大老井伊直弼は反対派の弾圧のために安政の大獄を強行したため、幕府に対する反発が強まり、攘夷思想の広まりと倒幕のうねりが生じます。
政治的な激動ばかりではなく、嘉永7年4月京都大火で禁裏が炎上、同11月安政東海地震、翌日に安政南海地震が発生、安政2年2月には飛騨、10月には江戸、翌3年7月には八戸沖と大地震が頻発し人災、天災が相次ぎます。
一方以前から欧米列強で唯一、日本と交流のあったオランダからは安政3年(1857)、海軍伝習所教官として軍医ヨハネス・ポンペ・フアン・メーデルフォールトが派遣され、彼と門下生の松本良順らの尽力により医学伝習所が設立されます。

条約調印1か月前の安政5年(1858)5月21日アメリカ軍艦ミシシッピ号は、上海寄港の後長崎に入港します。ミシシッピ号は嘉永6年に、ペリー東征艦隊として来航した黒船の一隻です。同艦には上海でコレラに感染した乗組員がいて、乗組員の上陸とともに長崎で広まります。
医学伝習所のポンペと、松本良順ら門下生は予防と治療に努めますが、当時の再先端医療である西洋医学の知識をもってしてもコレラを効果的に治療する術はなく、長崎で700人以上が犠牲になったとされます。それでも罹患者中の死亡者数は、明治になってからの流行時の死亡率より低くかったようです。ポンペは最新の知見であるウンデルリッヒの治療法に基づいて治療指針をまとめ、松本良順がこれを日本語に訳してひろめました。この中では治療薬として、マラリアの特効薬であり、キナの樹皮から得られるキニーネと、アヘンを用いていました。またこの時に治療のために開設されたのが長崎養生所で、初の西洋式近代病院と言われます。またポンペの助言により、7月にはアジ、サバなど一部の食品の売買を禁止するお触れが出されています。

「松本良順墓」

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「松本良順墓」 ~神奈川県中郡大磯町東小磯 妙大寺

5月に長崎から日本に侵入したコレラは、その後九州各地や山陰・山陽を席巻し、一説には6月に京都まで達したといわれます。ただし「日本疾病史~コレラ記事」には「安政五年戌午、仲夏より深秋に至り、諸国にコロリ病大に流行す、八月下旬に至りて京師初めて行わる」、「彦根市史 中冊」には「安政五年九月中旬ヨリ大阪ノ辺ヨリ一日転ト云フ疫病京都エ渉リ」との記述があり、寺院の過去帳から超過死亡者を割り出した研究によれば7月中旬と9月上旬にピークが見られることから京都で感染が始まったのは7月以降とみるのが妥当と考えられます。
この時の流行は年を越して翌年にまで続き、に安政6年7月には猖獗を極めます。朝廷のお膝元だけあって、幕府も傍観することもできなかったようで、施政者の対応の流れを追ってみましょう。
京都町触集成によると安政6年「未七月」に「流行病除方之御法書」という心得が発せられます。現在の「三密防止」や「新しい生活様式」のようなものですね。続いて未八月十二日付けで、「流行病并外病にして相果てし候者、先月十二日より今十二日まで洩れず」届ける旨、また今後は死亡者あるたびに届けるようお達しがあります。これは江戸時代版HER-SYS(新型コロナウイルス感染者等情報把握・管理支援システム)とでも言えるでしょうか。
このほかにも禁裏の医師に治療薬を調合させて市中に配布したり、困窮者に対する定額給付金にあたる、「鰥寡孤独貧窮もの」や「一人暮ニ而世話いたし候もの無之」者などへの救済の指示を出したりしています。因みに救済も町年寄に対する指示であって施策ではなく、町民の相互扶助に頼るなど、まずは自助、共助に頼る現政権と同じやり方です。結局は今も昔も変わらず、後手後手で無策に等しく、効果的に感染を抑制したり、民衆を安心させられるような効果はほとんど見られませんでした。
役所が当てにならぬならと、頑張ったのが町衆です。現在も続く筆、墨、紙を商う鳩居堂の当主熊谷直恭は、感染者を収容し、看護するために病人世話場という施設を木屋町御池に設けました。しかし自らもコレラに感染し、安政6年9月に亡くなります。
更に人々は祇園祭でもないのに、町ごとの山車を祇園社に繰り出したり、踊りながら上御霊社、北野天満宮、伏見稲荷に詣でたりしました。その様子は「神いさめ都の賑」という刷り物に残されています。刷り込まれた説明文には、以下の一文があります。

きのふ見し娘もけふは あら男 ころりと替る 神のいさをし

諦めを通り越して笑いに転じる、なんと諧謔に富んだ文章ではありませんか。これは流行真っ最中の安政6年8月に発行されたものです。
最終的に京都における死者は洛中1,869人、洛外835人との記録があります。

そのころ大阪では緒方洪庵が治療に奔走しています。

「緒方洪庵像」

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「緒方洪庵像」 ~大阪府大阪市北浜3丁目 適塾

弘化2年(1845)現在も保存されている適塾の建物に転居、開業し、診療の傍ら医学教育と、種痘を広めることにも多忙な日々を送っていた洪庵も、コレラ禍に巻き込まれます。大阪でコレラが流行しだしたのは、安政5年8月。直ちに洪庵は洋書を調べ、コレラについての治療法が記載してある三書を選び出します。すなわちモストの「医家韻府」、コンラジの「病学各論」、カンスタットの「治療書」でこれらを抄訳、更に伝え聞いたポンペの治療法を比較検討します。

「虎狼痢治準」

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「虎狼痢治準」 ~復刊本 著者蔵

更に自分の治療経験を踏まえ、ポンペの治療法により供給が追い付かなくなっているうえ、病期の進行状況では却って危険であるとしてキニーネの濫用を戒めます。こうした内容を同月中には「虎狼痢治準」にまとめて100部を刊行、治療に当たる医師に無料で配布します。

「虎狼痢治準」

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「虎狼痢治準」 ~復刊本 著者蔵

洪庵の治療法で優れているのは、一辺倒に同じ治療を行うのではなく、患者の病態をよく見極め、状況に応じた治療を施すとした点、塩類の静脈注射を採用した点、さらに薬に頼らず、体を温めたり、温湯、米の煮汁(重湯のこと?)や、コーヒーを与えるなど、看護法についても言及している点です。

「虎狼痢治準」
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「虎狼痢治準」 ~復刊本 著者蔵

長崎に始まった流行は、大阪、京都を経て東海道または中山道を伝わって東上したと考えられていましたが、参勤交代の宿地毎に飛び火的に、あるいは廻船の寄港地に侵入し、その周辺に広がった可能性も否定できません。
次回はそのあたりの謎に迫ります。


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