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海の見る夢 №4 [雑木林の四季]

April in Paris

                                          澁澤京子

 昔、犬の散歩の途中、しゃがんで犬のウンチをビニール袋に入れようとしていたときの事だった。「なんてかわいいワンちゃんかしら!」と上の方で声がして、見ると目の前には一部破れのある網タイツにハイヒールを履いた足が見える。見上げるとジーンズの短パンを履いた年配のゲイのおじさんがこちらを見下ろしていた。おじさんの顎にはうっすらと髭が生えていた。
「ねえ、ワンちゃん触ってもいい?」
「どうぞ、どうぞ。」家族以外の人にはめったに慣れないうちの犬が珍しくしっぽをふって歓迎しているではないか。

「あたしねえ、犬が好きでとっても飼いたいのね・・でもあたしの住んでるアパートは犬飼えないし夜はお仕事があるしょう・・」やがて、人懐こい彼女?は私と犬と一緒に歩き始めた。子供の時から動物が好きだったのだとか、いろいろな話をはじめておしゃべりがなかなかとまらない。おしゃべりが止まらないところが女っぽい。やがて商店街に出て人通りが増えてくると、前から歩いてくる人たちの視線が、まず一斉に私の隣を歩いている彼女に釘づけになり、それから私を見る。一方、並んで歩いている私には彼女の短パンと大胆な網タイツ姿は見えないし、第一、話しているうちに彼女が繊細なさびしがり屋であることがなんとなくわかってきたので、彼女に対する違和感はまったくなかった。

「あたしはね、昔、パリに住んでたことがあるのよ。」と彼女は話し始めた。
「まあ、素敵。」
「・・すごく楽しかったわよ・・あたしはパリが好き。できれば、もう一度行きたいわ・・春のパリってすごくいいのよ、お花がたくさんあって・・」
「・・いいわねえ・・」
恋人がフランス人だったのか、あるいは恋人と一緒に一時期パリに住んでいたことがあるのだろう。パリだったらこんな風に好奇の目で人からじろじろ見られることもなかったのじゃないだろうか?それから彼女は商店街で私の買い物に付き合ってくれて、また一緒に戻ってきてからようやく私の家の近くで別れた。まだ私とおしゃべりをしたそうだったけど、その頃子供が小さくて、私は急いで夕食の支度をしなくてはならない忙しい主婦だったのだ・・またこの辺でばったり会ったらおしゃべりしようね、と約束してから別れた。その後、夕方の同じ時刻に何度も犬を連れてその近辺を歩きまわったけど、彼女とはもう二度と会えなかった。

『チョコレートドーナツ』という映画を観て、その彼女の事を思い出した。捨て子のダウン症児を引き取って育てたというゲイの実話をもとにした話。映画ではゲイであるために親権を獲得することができず、法に訴えるが負けてそのために悲劇が起きる。
主人公のマルコを演じた子供がとても可愛い、子供を引き取って育てるクラブ歌手のゲイ役のアラン・カミングという俳優の優しく温かな感じもよくて、ゲイであるというだけで世間の偏見と差別に傷つけられているクラブ歌手が、障害を持った無垢な少年に癒されていく過程がじわじわと伝わってきて、二人の交流がとてもいい。

この映画を観ると、常識や偏見を振り回す世間一般の人々の狂気と暴力が逆に浮き彫りにされ、実際は誰がまともで誰がまともでないのか、とても考えさせられる。(頭の堅い人ほど自分が常識的でまともであることを信じて疑わないのだ・・・)

ホーソンの『緋文字』は私生児を生んだだけで額に焼印を押され村八分になって生活する女性の悲劇だったけど(アメリカの田舎町で起こった実話を元にした小説)こういった差別と排除は形を変えて続いていくのかもしれない、誰かを非難することが、自分は道徳的でまともであるという安心感につながり、誰かを非難したり排除することで人と団結する(国家は意図的に仮想敵をつくることで偽の団結を図ろうとする)・・信頼のない、バラバラの人間関係ではこういった仮想敵による絆しか持てなくなるのだろう。

同性愛に対する差別も、恐らく黒人差別・人種差別と同じように、これから何年たっても解決されることは難しいかもしれない。警官に取り押さえられて死亡した黒人の理不尽な事件はついこの間のことだったし、ビリー・ホリディの歌った「奇妙な果実」に見られるような人間の狂気は形を変えて続いていくのかもしれない。(その頃の、リンチで吊るされた黒人を囲んでお祭り騒ぎのアメリカ人の写真を見たことがある・・)

ようやくテレビから消えてくれたけど、白人至上主義で保守主義、女性蔑視、人種差別者のトランプを支持する人々はいまだに多い・・「お金がすべて」というわかりやすいイデオロギーも差別心も排外主義もトランプが堂々と正直に代弁してくれるからだろう。(マイケル・ムーアによるとその率直さが民衆に受けるところがヒトラーと似ているらしい)
トランプという人は(売上のためなら手段選ばず・弱者切り捨て)のアメリカ型自由経済の究極にはこういう人間が出来上がるという見本のような人じゃないだろうか。これを書いている今も、アメリカでのアジア人襲撃がニュースになっているけど、差別というものは誰かが先陣切って過激な発言をするとイモヅル式にあとからあとから湧いて出てくるものかもしれない・・

しかし、今アメリカで、グレタさんと同世代くらいの若い子たちが立ち上がり、銃規制問題や人種差別、政治や環境問題に積極的に取り組んでデモしたり発言したりしているのは、民主主義の健全さが保たれているようで実に頼もしい。

正義は時には暴力になりやすい。フランス革命がそうであったし、文革もルサンチマンによる残酷な暴力でしかなかった。国家の正義というものがただのプロパガンダで暴力でしかないのは、理不尽なイラク戦争があったことで私たちの記憶に新しい。しかし、ポストモダン以後の野放しの相対主義(正義の相対性による基準の喪失)もまた暴力と差別の温床になっているだけじゃないだろうか。理性や判断力を喪失すれば、人は集団同調を起こしやすくなる、あるいは誰かを否定することが己のアイデンティティの確認になる、見せかけの平等社会では、自分の不安を弱者にぶつける人、誰かを見下すことでかろうじて自分の優越感を維持しようとする人が多くなるだけで、こういった差別と暴力はなかなか根絶できないのかもしれない。普遍や理念を喪失すれば、自分を計るモノサシは常に他人との比較だけ。何の目的も考えも持たず、自己保身と他人より優位に立つことだけが唯一の目的の、不毛な競争社会になるのかもしれない。

差別を問題にすると必ず出てくるのが「偽善者」という批判であって、確かに人には個人的な好き嫌いはある。しかし、差別となると単なる社会的な、あるいは教育や文化の刷り込みでしかないのではないだろうか?もちろん個人の好き嫌いも、取り巻く文化や周囲からの刷り込みであることは多いが・・大切なのは自分がどういう偏り、価値観を持っているのか、自分自身を客観的に見る視点を持つことなのかもしれない。

頭のいい人ほど、物事や人に対して(先入観抜きの)白紙で向かうことができて、それゆえ的確に対象を理解できるように、明晰で洞察のある人ほど、こういった差別や偏見、思い込みから自由になれる人が多いような気がする。

『ヴィクトリア女王最後の秘密』は晩年のヴィクトリア女王とアブドゥルというインド人従僕との友情の実話をもとにした映画で、映画でインド人の青年アブドゥルは女王の信頼と寵愛を受けたために女王の周囲の宮廷の人間や貴族たちから大変な嫌がらせを受けるけど、実際インド人であるという理由だけでも、宮廷では差別や陰険な嫌がらせをずいぶんと受けたのだろう。(しかも、アブドゥルはイスラム教徒であった)しかし、ヴィクトリア女王はアブドゥルから素直にイスラム教の教えを聴いてその教えを尊重する・・アブドゥルを、なんとか実の息子や臣下たちの悪意や陰謀から守ろうとするヴィクトリア女王の毅然とした態度と、アブドゥルに対する変わらない愛情と信頼が心を打つ。

ロックフェラーの娘で男爵夫人だったニカも、そういった偏見や差別からは自由な一人で、セロニアス・モンクのパトロンとして面倒を見て、最後まで看取った。ある日、ラジオから流れてきたセロニアス・モンクのピアノを聴いて、天啓を受けたような気持ちになってそのままジャズにのめり込んだのだ。セロニアス・モンクのピアノって、荒々しいけど本質を摑んだ確かなデッサンみたいで、その魅力にとりこになった気持ちはわかる。(ニカはチャーリー・パーカーの最後も看取っている)

セロニアス・モンクはニカと一緒にアメリカ南部をドライブしていたときに、洗面所を借りただけで不審者扱いされて不当な逮捕をされる。(ニカの奔走によって無事に釈放されたが、ニカはそのために自分の実家とは縁を切ることになる)ヴィクトリア女王やニカのように、つまらない差別・偏見と闘う勇敢な人たちはいつの世にもいる。
しかし、差別といっても、トランプのような人種差別者を差別することは決して「差別」にはならないだろう・・そして、差別や偏見から自由だということは人の本質を見抜けるということなのかもしれない。それは臣下のお世辞や悪意ある告げ口など、腹黒い人々にとり囲まれたヴィクトリア女王が、たった一人のインド人の青年に正直さと真の友情を見つけたように。

結局、愛だけが人を本当に理解する鍵であるということを、『チョコレートドーナツ』のゲイの青年、そしてヴィクトリア女王とニカは教えてくれる。

セロニアス・モンクの『April in Paris』のピアノソロが好きだ。春の雨の降る静かな日に、じっと雨だれの音を聴いているようで、とても優しい気持ちになれるからだ。


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