SSブログ

日本の原風景を読む №22 [文化としての「環境日本学」]

天に掛かる岩の梯子―磐梯山

  早稲田大学名誉教授・早稲田環境塾塾長  原 剛
                                        
 磐梯山(「八一六メートル)は山そのものがご神体として祀られ、北に吾妻山、南に安達太良山(あらただやま)へと連なる山岳信仰の本拠である。磐梯山の頂には明神様が、山麓にはお寺が、つまり神と仏がおよそ一二〇〇年もの間、隣り合って鎮座してきた。磐梯山は山岳信仰と神仏習合の物語に培われた日本文化の心のふるさと、古層なのだ。
 磐梯山の「梯」は「はしご」、古い名は「いわはしやま」、天に掛かる岩の梯子を意味する。磐梯山を仰ぐ福島県会津若松市、磐梯町、北塩原村には体を脱け出した人の魂が磐梯山に向かい、頂に掛かる岩梯子を伝い天に登る、と伝えられている。
 「磐梯山北面(裏磐梯側)の荒ぶる自然、南面(猪苗代湖側)の趣深い宗教文化と、対照的な景観を是非ご覧ください」(裏磐梯エコツーリズム協会・伊藤延贋さん)。
 裏磐梯側から見ると、磐梯山は急峻な稜線を荒々しく連ねている。しかし山麓に眼を転じれば、深々と静まる樹海の奥に、紺から緑まで美しい水をたたえた三百余りの湖沼が秘められている。明治二十一年四七七人が岩なだれで犠牲となった大噴火から一二六年の間に、コナラ、アカマツ、バンノキなどさまざまな樹種からなるみずみずしい芙林がよみがえったのはなぜか。
 「溶岩を噴出しない水蒸気爆発だったため、崩落した岩くず、土砂に大量の植物の種子がたくましく残り、芽ぷいたこと、それに会津若松の実業家、遠藤現夢の功績が大です。一九一〇年(明治四十三年)、現夢は荒地を緑化して大森林公園づくりに取りかかったのです」(磐梯山ジオパーク協議会・蓮岡真さん)。
 現夢は国の払下げ地一九九〇ヘクタールに、巨費を投じてアカマツ五万本、スギ三万本、ウルシ二万本の苗木を植え付けた。今、天を衝くアカマツの森をたどると五色沼のひとつ青沼畔の巨岩に志なかばで病に倒れた現夢を悼む一言粟が刻まれている。
 「其ノ功ヲ語ルモノハ 其ノ手二植エシ松ノ緑ノミカ」。

 山の神と仏の同居

 大同元年(八〇八年)、磐梯山が大噴火し猪苗代湖が生まれた。朝廷の命により、磐梯両を鎮めるため空海が清水寺(現・慧目寺)を建立したと伝えられる。その翌年、奈良東大寺の学僧で、法相宗教学の第一人者だった徳一(推定七六七~八四一年)が、会津から転居してきたという。
 徳一は既に筑波山麓に修行道場「中禅寺」を建立し、神仏習合の教えを民衆にひろめていた。徳一は『真言宗未決文』を著し、空海の教学を批判し、最澄とも「三権実論争」と呼ばれる仏教論争を展開していた。
 空海から「徳一菩薩」と称された高名な学僧が、なぜ辺境にやって来たのだろうか。
「東国に残る仏教未開の霊山に魅かれた。磐梯山爆発の犠牲者の供養だった。あるいは空海、最澄に先行する奈良仏教法相宗の教えを普及するためだったとか、諸説があります」(磐梯町文化課・白岩賢一郎主幹)。
 徳一は磐梯山山麓に慧口寺をつくり、既に祀られていた磐梯神社の別当寺(神仏習合により、神社を守護するためにつくられた神宮寺)とした。
 磐梯明神を奥宮(本宮)、慧日寺を里宮と位置づけ、山の神と外来の仏を同居、交流させる神仏同体、仏神不二の神仏習合を完成させた。
 磐梯神社の別当寺を山腹の境内に建立し、神と仏が助け合い、協力し合ってことに当たるとされる神仏習合である。今もこの様式は日本中の寺社に残されている。かっては慧日寺の僧侶が磐梯神社の宮司をつとめたことがあった。
 稲作伝来この方、稲魂を主神に水や樹木、岩などを神とあがめた日本の神道は、仏教が神道を配慮して「山川草木悉有仏性」の教義を表したことで仏教と重なり、習合する。慧日寺はその原型である。磐梯山麓にいまある寺社の風景に、日本文化の原風景が明快に刻まれている。
 慧日寺は大伽藍を形成していたが、たび重なる兵火に焼かれ、再建を重ねた。国の史跡指定を受け、現在整備事業が進んでいる。金堂は平成二十年四月に復元された。
 慧日寺の資料館は神仏習合と修験道など、山岳信仰の多彩な遺物を集め、日本人の宗教心の移り変わりを鮮やかに描いてみせる。なぜ私たちは神棚と仏壇を祀り、七五三と仏事を連ねるのか。訪ねる人は至る所に自分の生活作法の原点を見つけ、気付くことであろう。

 木地師と会津漆器

 漆器はいまも会津の代表的な産物である。椀の原料荒型(あらがた)は、かって木地師(きじし)によって作られた。昭和六年に木地師となった大竹繁さんを曽原湖畔に訪ねた。「わしら早稲沢(北塩原村)の四〇世帯は、みな地付きの木地師でした。ブナとトチ材を男が沢水を動力にロクロをひいて椀型に型どりし、女がチョウナでくりぬいて一二〇個のアラガタ椀を一組にして、会津若松の加工場に運んだものです」。
 瀬戸物(陶器)に押され、材料の原木が尽きると稲作を、さらに田畑で高原野菜の栽培をこころみ、今では観光客相手のキャンプ場を。秋の陽にきらめく湖面に目を細め、大竹さんは森を相手の山暮らしの日々を懐かしむ。

『日本の「原風景」を読む~危機の時代に』 藤原書店


nice!(1)  コメント(0) 

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。