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多摩のむかし道と伝説の旅 №59 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

         中世の軍道 深大寺道を行く 5

              原田環爾

 庚申堂を後にして東久留米市と新座市の都県境を北上する。交差点「神宝町一丁目」で通りを横切ると深大寺道は急な上り坂となる。上りきった所は丁字路帯で東久留米市立第四小がある。小学校を左に見てうねうねと道なりに進むと、沿道左は東久留米団地が広がる。団地の端で狭い車道を越えて新座市に入る。数軒の民家を抜けるとのどかな畑風景が展開する。道は畑の真ん中を真っ直ぐに北に突き進み、民家の前の通りで丁字路でぶつかる。かつての深大寺道はこのまま直進したのであろうが、今は消えてしまっている。右折して100mばかり東へ進んで再び北へ向かう富士見新道と称する道筋に入る。道幅が狭い割りに車両の通行が多いので注意が必要だ。ほどなく深大寺道5-1.jpg「西堀公園」の道標の掛かる水道通りと交差する。水道通りの南側に沿って一条の用水路と遊歩道が走っている。遊歩道は馬喰橋通りといい、用水路は野火止用水である。知恵伊豆の家臣安松金右衛門が開削した水路だ。橋の傍らには古びた堂宇があり、庚申塔と馬頭観音が祀られている。野火止用水は江戸時代の明暦元年(1655)、玉川上水開削工事を指揮した老中で川越藩主の松平伊豆守信綱がその功績により玉川上水の水量の3/10を不毛の野火止原野に分水することを許され開削した用水路だ。小平で分水され東村山、清瀬、東久留米、埼玉県の新座を通り、一部は平林寺に注ぎつつ新河岸川に至る全長25kmに及ぶ用水路である。野火止新田開発に尽力した伊豆守をたたえ伊豆殿堀とも呼ばれる。実際の開削工事は信綱の家臣で数理に秀でた土木技師安松金右衛門によって行われた。三千両の資金で一度も失敗することなく40日余で開削したと伝える。彼はまた玉川上水開削工事に二度の失敗を繰り返し難渋する玉川兄弟を技術面で陰ながら支援した人物としても知られている。
 富士見新道を北に進む。やがて沿道左には広大な米軍通信隊基地が広がり、右手には総合運動場が展開する。まさに辺り一面武蔵野台地といった景観になる。その広大な空間をただひたすら北上すると、やがて家屋が現れ「本多庭球場」の道標のかかる辻で陣屋通りと交差する。「陣屋通り」の名はこの通りがここより東にある平林寺の傍らにあった陣屋に通じる道であったからだ。程なく車の行き交う志木街道に丁字路でぶつかる。左折して100mも西へ進めば、道標「清瀬旭が丘団地」の掛かる丁字路帯に来る。ここから北へ向かう道が恐らく深大寺道の続きであろう。恵山通りを右にやると程なく旭が丘団地南縁の車道に出る。ここより新座市から清瀬市に移る。深大寺道は団地で消えているので左へ迂回する。車道を左にとるとすぐ団地の西側を南北に走る旭が丘通りにでる。角の団地の一角にはこんもりと雑木林で覆われた小公園になっている。旭が丘通りを北へ進むと柳瀬川通りと交差する。交差点の北東角地の土手の上には鎮守の杜があり、上宮稲荷神社になっている。交差点を渡り緩やかな坂道を上ると、上がりきった 所で右手方向に分岐する細い下り坂の路地がある。観音坂といって坂の100m 先には寺の屋根が見える。清瀬の古刹清水山円通寺だ。清水山圓通寺は真言宗豊山派の寺で、南北朝時代の暦応3年(1340)の創建で、清瀬では最も古い寺とされる。清瀬古道に面する寺の山門の横には重厚な造りの長屋門が目を惹く。寄棟瓦葺(もとは茅葺)で天保15年(1844)の再建という。山門のそばには地蔵や道祖神など石仏・深大寺道5-2.jpg深大寺道5-3.jpg石塔が佇む。山門をくぐれば、正面に銅板葺の本堂、右に鐘楼があり、傍らに弘法大師像が立っている。本尊は木造観世音菩薩立像で別名「駒止観音」と呼ばれている。駒止観音にはこんな伝説が残されている。この観世音菩薩像は建武中興戦争で活躍した新田義貞の弟脇屋義助が、劣勢の南朝を立て直すため北畠顕家と再挙をはかるべく奥州へ下向する途中、鎌倉松ヶ岡の東慶寺から守り本尊として奉持したもので、初め圓通寺の門前に堂を建てて安置したという。ところがそれ以来馬に乗ったままここを通ろうとするとなぜか必ず落馬した。このことから別名駒止観音と呼ばれる様になったという。そして観音像はいつしか圓通寺の本尊になったという。圓通寺に通じる観音坂の名はこの観世音菩薩像に由来すると言われる。
深大寺道5-4.jpg 円通寺を後にして旭が丘通りに復する。間もなく柳瀬川に架かる城前橋の袂に来る。城のデザインをあしらった趣のある橋だ。下を流れる柳瀬川は狭山丘陵の北麓を水源に、清瀬市と所沢市との都県境を流れる川だ。北岸には中世の山城滝の城址のある城山が望見できる。上杉氏の重臣大石氏の城で、川越城と深大寺城の中間点に位置する。城前橋を渡り滝の城址を目指す。橋の北詰めから右手に分岐する土の側道に入るとすぐ、滝の城址公園の駐車場に入る。駐車場を抜けて高い武蔵野線のガード下をくぐるとそこが城址公園になっている。公園は鬱蒼と樹々で覆われた城山を背景に、野球グランドやテニスコートが深大寺道5-5.jpg広がる落ち着いた公園だ。園内の小道を進むとすぐ城山の麓にぶつかる。そこから石垣に沿って城址へ向かう階段がある。階段を左回りに回り込み城山の中腹へ上がると、右手に「城山神社」と刻んだ石柱と鳥居が立っている。鳥居の先は細い急階段で、ここを上がり再び鳥居をくぐるとそこが城山の頂上だ。頂上は平坦な削平地でここに神社の本殿があり、城の本丸跡でもある。本丸の南側は断崖絶壁で、眼下を望むと柳瀬川を挟んだ清瀬市内を見渡すことが出来、戦国の城にふさわしい要害の地と言える。本丸の社殿に向かって左手にある大きな石の鳥居をくぐると左に社務所、右手前方に二の丸がある。その二の丸の手前を右へ入る小道は三の丸へ向かう道だ。空堀の遺構が見事に残されている。
深大寺道5-6.jpg 滝の城は室町から戦国時代にかけて、自らを木曾義仲の後裔と称し、関東管領上杉氏の重臣として多摩に勢力を振るった大石氏が築城した。第12代大石定重の時、八王子の多摩川沿いの加住丘陵に滝山城を築きこれを本城とし、また柳瀬川の北岸に滝の城を築きこれを支城とした。文明10~18年(1478~1486)のことと推定される。しかし次の大石定久の時、上杉氏が小田原北条氏との関東の覇権をめぐる争いに敗れると、定久は北条氏の圧力に抗しきれず、北条氏康の次男氏照を娘婿に迎え入れて滝山城を譲り、自らは五日市の戸倉城に隠棲した。これに伴い滝の城も同様に北条氏照の持ち城になった。しかし天正18年(1590)、天下統一を目指す豊臣秀吉の攻撃によって、関東各地の北条氏の支城は次々と落城、小田原本城も落とされて北条氏は滅亡した。太田下野守の守備する滝の城が一戦交えて落城したのか、戦わずして開城したのか不明であるが、いずれにせよ戦国の終焉とともに廃城となった。
 城址を出て東所沢病院を左にやると東西に走る広い車道に出る。ここは地名が「城」と呼ばれる所で古い土地柄だ。深大寺道はここから更に北を目指して川越へ向かうのであろうが、本稿ではここで終わりとする。帰路はここから西へ2kmばかり離れたJR武蔵野線東所沢駅へ向かえばよい。(完)


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