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渾斎随筆 №77 [文芸美術の森]

リーチさん

            歌人  会津八一

 リーチさん。この度は、あなたの高い御談や作品の力で、この地方の工芸家や趣味家たちを絶賛して下さるために、遠いところを、お出かけ下さったことを感謝します。ただ私は、のつぴきならぬ先約のためにあなたの御到着と行きちがひに、長野縣へまゐりますので、お目にかかれぬのを残念に思ひます。私は、あなたが初めて日本へおいでになった頃から、あなたのことをよく知り、御作品なども、ずつと拝見して居るのですし、一度などはあなたから私へ意味の深い御手紙をいただいたこともあるのに、不思議な因縁で、名乗り合って御目にかかったことがまだ一度もなかったのでした。こん度も、わずか一日の違ひで、御目にかかれないのは、何といふ恨めしいことでせう。
 リーチさん。あなたが私への手紙を下すったのは、今から三十何年も前のことです。あなたの今でも尊敬されてゐる小泉八雲先生の三男の清君を、上野の美術學校へ入學させるといふので、この淸君を私の家に預って居る頃でした。あなたは、そのことを向島の淡島寒月さんからお聞きになって、何も日本だけのことでもないが、およそ美術學校といふものは、ほんとの美術家を造るには、決していいものではないから、それは中止してほしいといふのが、御手紙の趣意でした。實は私自身も、あなたと全く同意見なのでしたが、當人の清君も、小泉夫人も、上野の美術學校を、それほど悪い學校だと思って居られなかったために、遺憾ながらその人たちの望みに任せて、上野へ入れたのでした。その頃、ある日私は小泉夫人と寮生の舞臺へ能を見物に行きましたところが、夫人は見物席の人ごみの中で遠方から指さして、あれがリーチさんです。あとで御紹介します、といふことでしたのに、やがて混雑の中にお姿を見失ってしまひました。これはほんとに残念でした。私があなたを見たのは何ともかんともこれだけですが、私が向島の淡島さんの所へ行くごとに、淡島さんは、よくあなたの噂をしてくれました。そしてあなたのお宅で、乾山老人にお頼みになって、初めて窯(かま)を御築きになった時、いはばその初窯であなたと夫人とのほかに、淡島さんと、長原孝太郎さんと、四人で御焼きになった時のものを、私は淡島さんから湯呑を一つ貰つて、大切にして居りましたが、戦災で東京の宅で焼いてしまひました。淡島さんばかりでなく、私は乾山さんや長原さん、そしてあなたと二人、同じ乾山さんの御弟子の富木憲吉さん、これらの人たちは、いづれも私はお懇意正して居りましたのに、あなたにだけは御目にもかかれなかったといふのは、何故でせう。これを日本では因縁ごとと申します。
 リーチさん。随分古いことばかり申しましたが、あなたはもう御忘れになって居ると思って居たのですが、近頃中江百合子さんに聞きますと、あなたは私の名を今でも記憶に留めていらっしゃるといふことですから、御あいさつかたがたこれだけつけ加へたのです。
 リーチさん。この機會に申し上げますが、あなたが美術學校へ入れてほしくないと御注意のあった小泉清君は、人學はしたものの、間もなく學校に倦きて、自分から退学し、一と頃は夢中になってヴァイオリンなどを稽古したりして居ましたが、今では繪に戻って、美術學校風でない繪を眞面目にやって居るやうです。この機會にご報告申します。
              『新潟日報』夕刊昭和二十八年十月十三ロ

『会津八一全集』 中央公論社


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