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日本の原風景を読む №21 [文化としての「環境日本学」]

神、自然、人がまじわる安曇野-常念岳 2

  早稲田大学名誉教授・早稲田環境塾塾長  原 剛

輩出した反骨の群像

 四月、残雪の常念岳の山肌に托鉢僧の姿が現れる。読経の声も聞こえるという。有明山麓に棲み、征夷大将軍坂上田村麻呂と勇敢に戦い、敗れた「鬼」こと八面大王に仕えた常念坊が唱える念仏だと伝えられている。大王わさび農場の由来は「鬼」の胴体を埋めたと記された碑が、わさび田から発掘され、その場に八面大王神社を建立して祭ったことに由来する。
 都の征夷大将軍坂上田村麻呂は中央政府、有明の鬼こと八面大王は地域自治のシンボルだ。安曇野人の盛んな反骨精神はこうして再生されていく。
 八百年余の水田稲作史を刻む安曇野穂高町は、近代彫刻の父荻原篠山、自由民権家の松沢求策、新商人道を拓き、東京新宿に中村屋美術・政治サロン(現在の中村屋)を営んだ相馬愛蔵・黒光夫妻、反戦の自由主義者、ジャーナリストで『暗黒日記』を書いた清沢冽(きよし)、彫金工芸界の第一人者山本安曇など、日本の近代化に貢献した人物を輩出した。
 ― 欧米模倣や官僚主義、形式主義をもって権威づけた近代の主流に対し、彼らのいずれもが独創を重んじ、人間性の尊厳を強烈に打ち出しているのが際立った特色である。分野はそれぞれに違うが、俗悪を排し、清らかに厳しく、そして一途に信念を貫く人間像が共通項として浮かび上がってくる。  (『信州穂高』安曇野出版)
 彼らを育てたのは「研成義塾」の主、井口喜源治である。

良書品性の人になれ

 明治三十一(一八九八)年、穂高町東穂高に安曇野文化の揺藍になった研成義塾が開かれた。
 教師は前任の東穂組合高等小学校から転じた井口喜源治一人だった。一人で英語、数学、漢文や彼の信仰するキリスト教聖書などを教えた。「人はいかなるものになろうとも、何をしようともその前に良き品性の人になれ」「教育は『できる』『できない』というレベルにだけでなく、その子の良さ(天賦)をどう伸ばすかにある」 (塾設立趣意書)。
 研成義塾を訪れ講演した内村鑑三は、井口を「穂高のペスタロッチ」と讃え、次のように記した。
 ― 南安曇郡東穂高の地に、研成義塾なる小さな私塾がある。若し之を慶応義塾とか早稲田専門学校とか云ふような私塾に較べてみたならば実に見る影もないものである。其建物と云へば二間に四間の板屋葺の教場一つと、八畳二間の部屋がある許りである。然し此小義塾の成立を聞いて余は有明山の親々たる頂を望んだ時よりも嬉しかった。此小義塾を開いた意志は蝶ケ岳の花崗岩よりも硬いものであった。亦之を維持するの精神は万水の水よりも清いものである.。  (井口喜源治記念館刊『安曇野人間教育の源流』)
 井口は黙々と農村青年の教育に励み、昭和七(一九二三)年まで明治、大正、昭和の三四年間に八百人近く教え子を世に送りだした。彫刻家荻原守衛(撒山)、外交評論家清沢冽、野の思想家斎藤茂らは研成義塾とその塾生たちから学んだ。出色は明治末期から大正初期にかけ、理想郷の建設を目標に塾生七二名が渡米し、シアトル市を中心に定住し、その信念を保ち、誠実に生き抜いたことである。移住二世のゴードン平林は、第二次大戦時、日系人の強制収容所への入所を拒否し、収監された。しかし、穂高町出身の同志に支えられて連邦最高裁判所まで争い、完全無罪判決を得た。レーガン米大統領による謝罪と米政府による補償金各人二百万円の支払いを勝ち取った。
 井口の授業は教室を出て、万水(まんずい)川のほとりの草原で、常念の山々を見ながら行われた。明治三十九年荻原篠山が米国から師の井口に宛てた書簡に、風景の中の人間の暮らしと歴史をうかがい知ることができる。
 ― ああ、万水!! 凡ての己が幼き記憶は此の稗に包まれつ。己れ汝の当たりに草刈りつ、汝の清姿に面を洗いつ、汝の辺りに蛍を追いつ、汝の辺りに蛙を聞きつ、汝の辺りに月を楽しみつ。汝の辺りに己が友と夜をこめて談り明けつ、己には何時のかく曲がりてかくれ流れ行くや、此角に青柳覆ひ、彼の淵にブトさまよう様の、今明明と、居な、実は己れは汝の辺に立ちて東山(井口喜源治)の書窓に向ふて歩みつつあるかの如く感ずる也。(原文のママ)

 中島博昭は安曇野人に共通する性格の背景を指摘する。「幼い頃、常念岳を見て育った場合、本人が自覚しなくとも、水と山の魂が心の奥底に刻まれ、常念山麓を離れて暮らしても、その魂に生きるという人々がいる」(『常念山鹿』)。

『日本の「原風景」を読む~ききの時代に』 藤原書店


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