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渾斎随筆 №76 [文芸美術の森]

 文化の反省

            歌人  会津八一

 私は東京に四十年あまり暮して、それから戦災で無一物になり、學校教師をやめて故郷へ歸って来たものだが、東京に住んで居た長い間に、一度も文化の意義とか、その必要とか、向上とか、そんなことでつくづくと考へてみたこともなかった。だから自分から人の前へ出て、さういったことでお説法めいたことを、喋舌ったことはなかった。
 けれども新潟へ歸.って来て驚いたのは、そんな問題で、話をさせられることが多いことだ。何かの會とか團體とかいふものが、いい指導者を見つけて気を揃へて、たとへば農事の講習を受けるとか、洋裁のお稽古をするといふやうなことは、それは、ほんとにいいことで、三回のところを、都合が附かないために一度しか聞かれなかったとしても、その一度でも、聞いただけで、そのままほんとにためになる。だから大におやりなさるがいい。けれども文化問題といふものはそんなわけには行かない。同じ文化問題でも、枝葉末節の方なら、まだいくらかためになることがあるかもしれないが、根幹とか精神とかいふことになると、どんなに偉い指導老を擔ぎ出して来て、それに取り縋って聞いて見ても、ただそれだけで、いい効能が顕はれるといふわけには行くものでない。また憺ぎ出されて講樺をする方の身になっても、その人が正直で、誠實な人ならそんな覚束ない役目を、買って出ることをめつたに望むものでない。それを職業にして居て、話上手に、説き去り、説き来つて、進に満場喝采のぅちに説き了るといふことまでは、熟練な語り手には困難でないかも知れないが、それが面白かったといふだけでは、聞いた方の人達の文化がそれで進んだとは云へない。聞いて来た通りを、村へ歸って、友だちにも話す。それを聞いて、皆が面白がる。そんなことは、いつもあることだが、それだけで、その人なり、それをまた聞きした人たちなりが、大に文化的に偉くなったといふわけではない。いい事、新しい事、それを聞くのはいいことで、自分のためにもなるし、そのお裾分けをしてやつても、人のためにもなる。しかし、それでは、只だ「耳學問」をしたといふだけのことで、ほんとにその人の心にまで響くほどの感激を受けて居ない。そんなことでは、文化的に見て偉くなったとはいへない。心にまで深く響渡るほどの感激を受けたばかりでなく、その後は、物に對し、人に對し、自分に對して、その人の判断も、行動もが、まるで別な人を見るほどに變て来る。しかもそれが、只だ一度だけでなく、だんだんと、そんな風に進んで行く。しかも、それは何度まで行ったから卒業だといふのでなく、どこまでも繰り返し、繰り返して進んで行く。かうなって初めて文化的の本筋の生活に、はひつたと云ふのだ。馬鹿の一つ覚えのやうなことを、生兵法を振りかざして、文化人気取りもないものだ。だから文化生活の正しさ、ありがたき、願はしさ、従ってまた厳めしさ、気むづかしさ、それをこひねがふものは、請け賣りの文化講演などをやめて、もつと眞面目に、謙虚に、獣々として實行、實現の生活に、はひらなければならない。だから私などは、何十年も東京に住んで居ても、そんなことを滅多に人に向つて説いたことがなかったのだ。
 そこでこの文化生活といふことは、大金をかけて上等の設備をして、電燈會社でも起して、自分の住む地方を明るくし、それと共に大いに儲けて、たくさんの配當が出来たといふこと、それは勿論いい事であり、また大切なことであるが、それだけで、それを文化生活などいっても、何か少し物足りない。たしか昨年の年頭にも、私がこの新聞で書いたやうに、新潟では美術がよく理解されて居ない。たまに大金を投じて美術品を買ひ集めても、ほんとのところは利殖のためにやつて居る人が多いのらしい。もとより大金を掛けて、大に儲ける腹構へであれば、そのために損をせぬやうに一心になって、参考書や實物を、よく研究して、鑑識眼も人よりも鋭くなり、また正確になるのは珍らしくもない。従って滅多な骨董屋や、批評家が遠く及ばないことがある。けれども、これは営利に抜け目がないために、無暗に手堅くしてゐるといふだけのことで、よしんば、その人が正しいものを澤山に持って居たとしても、それを決して文化生活などとは申されない。
 また、今では、越後の名物となって居る良寛和尚でも、この人が存命の時に、この人の歌なり詩なりについて、果してどれだけの人が、どれだけの程度まで、ほんとに理解し、そして、この人に對して、どれだけほんたうの敬意を抱いて居たものかを考へて見たい。變った坊さんで、變った文字を書くといふほかに、大多数の人々が、あまり深い敬意を拂って居たとは思はれない。なぜかといへば、その人たちの人生観や藝術観とは、あまりに遠い良寛和尚であったから。しかるに、彼は、何處へ行つても、筆と紙とを持って、行くさきざきへ迫ひかけて来て、字を書いて欲しがる人は、遂に絶えなかった。それは、よく解らないけれども、變って居るから欲しい。謝禮がいらないからほしい。人が持ってゐるから欲しい。あとで高くなるかも知れないから欲しい。さういふ熱望者は、いつの世にも絶えないものだが、この中のどれにしたところで、決して文化的な理由だとは思はれない。
 また現代になって、良寛なら良寛、誰なら誰といふ風に、その人に専門といふか、専属とでもいふか、特別の鑑定家といふものがあって、なるほど、よく調査がしてあり、微細にわたって、時としてはつまらぬ末の末の果までも知って居り、判断は概して正しい。それはまことに感心するが、その人が、歌の一首も自分で詠めるでもなく、文字らしく文字が書けるでもなく、大昔の歌でも、良寛の同時代の歌でも、現代の歌でも、凡そ良寛の歌のほかには、歌らしい歌を知らず、良寛の書道のほかには、何一つ古今の書道を知らず、ただ良寛をたくさん手掛けた関係から、良寛だけはわかるといふのは、永い年月を白米商をやって居たので、その経験から、一撮みの白米を手のひらの上に載せてやると、すぐ正にその産地をいひあてるといつたやうなもので、その判断には敬意を表さなければならないが、その人をば、決して文化的だといって褒めるわけには行かない。ただ細かいことを、隅から隅まで知り抜いて居るといふだけでなく、それをいぢる人の心と、良寛なら良寛の心と、或はその藝術心とこちらの藝術心とが、どこの所かで、のつぴきならぬ感交がなくてはならない。
 美術品はたいてい高債なもので、貧乏人では買ふのなんのといふことは出来ない。そこで貧乏人はコロタイプの印刷かなどで、ひそかに鑑賞をして、それで満足するよりしかたがない。とにかく、そんな間にでもいくらかの鑑賞の満足が出来るのは、ありがたいことだ。しかしこの印刷物を賣り拂つても、いくらの金になるものでもないが、金儲けを目的にする骨董の賣買よりは、こちらの方が、美術に封しては、ずつと本格的の態度と云はなければならない。高い金を拂ふだけの力が無いからと云つて、それで軽蔑さるべきではない。                 (新潟日朝昭和二十八年一月一日)

『会津八一全集』 中央公論社


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