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海の見る夢 №2 [雑木林の四季]

子供の情景

              澁澤京子

 父が昔、「年を取るということは、中身は大して変わらないのに外側だけどんどん老けていくという事だ。」という事をよく言っていて、それは私も年取ってから実感できるようになってきた。私の場合、外側に比べて精神が未熟である、と言う感じであるが。

この間、you tubeでまだ20歳を超えたばかりのジャズピアニスト小曽根真さんのバークリー留学、そしてその才能が若くして評価されてカーネギーホールでコンサートを開くまでのドキュメンタリーを見た。まだ22,3歳なのに、インタビューの受け答えが非常に大人で、すでに十分に老成した考え方を持っている。今、同じ質問をされてもやはり似たような答え方をするのじゃないだろうか。才能の開花も早かったけど、若い時から成熟した精神の持ち主だったのだ・・

考えてみると、私の友人で非常に成熟した精神の持ち主というのは10代のときもやはり早熟で大人の判断力と洞察を持っていた。人の精神の成長というのはなかなか遅々として進まず、もしかしたら世の中にはほんの一握りの、柔軟な大人の「成熟した精神」とその他大勢の「未熟な精神」がいるだけなんじゃないだろうか?そして精神年齢というものはあまり実年齢とは関係ないのだ・・成熟した精神の持ち主はかなり若い時期にすでに老成してしまうものなのかもしれない、そして未熟な精神の人は年をとっても未熟なままだったりするのだ・・

そうすると、政治家の失言だのごまかしだのは、その他大勢の「未熟な精神」のなせるわざと考えれば、なるほど、と納得するではないか。無神経な失言も、自己保身に汲々とするのも、人に流されやすいのもただの「未熟な精神」。要するに自律的な判断力と、責任を引き受ける主体性がないのが「未熟な精神」だろう。政治家としてヴィジョンと意志を持つのではなく、国民の人気をとりたい、人を愛するのではなく、愛されたい、理解するのではなく、理解されたい、と常に受け身の立場を好むのも「未熟な精神」だろう。

「・・天国は幼子のようなじゃないと入れない」の「幼子」と、「未熟な精神」はまったく別のものなのである。成熟した精神は、理性的で自律していて、同時に傷つきやすく無防備な「幼子の心」も同居する精神なのだと思う。それはシューマンの『子供の情景』のような、成熟した大人の中の子供の感受性であり、理性には子供のような柔らかい感受性が必要なのだと思う。

ホロヴィッツのピアノを聴いていると、傷つきやすく無防備のままでいいのだ・・という感じになってくる。成熟とは、世間体や人目を気にしてとりつくろうとか、他人の事を気にしたり、人より優位に立とうとすることではない・・それらは他人の目に依存した「未熟な精神」なのであって、常に真実から自分をごまかしてしまう。人生の真実はもっと深いところにある。

~「私はあなたには時々子供のように見えるでしょう」と言ったことへのこだまなのです。―つまり私は子供のエプロンをつけていた頃の気持ちにかえって三十もの奇妙な小曲をつくりました。そのうちから十二曲を選んで「子供の情景」と名付けました。~クララにあてた手紙・シューマン

クララの父親にいやがらせをされながらも、なんとか幼馴染のクララと一緒になる希望がでてきた時にシューマンが作曲した曲。シューマンがクララだけにあてたラブレターのようなピアノ曲。クララの両親に反対されずっと妨害されていた辛くて苦しい恋だっただけに、シューマンの飛び回りたいほどの歓びが伝わってくる。

子供の時、ガールスカウトの夏のキャンプで歌っていた『山の朝』が大好きだったけど、あれはクララ・シューマンの作曲で、山の朝の清々しさが直接に伝わってくるような歌。クララ・シューマンは少女の時にすでにゲーテやショパンに絶賛される早熟な天才だった。クララはシューマンを生涯、献身的に支えたが、ノクターンの演奏を積極的にしてショパンを有名にしたとも言われている。シューマンの陰に隠れてしまうクララだけど、クララ・シューマンの曲は繊細で切ないものが多い。

クララの父親の娘に対する病的な独占欲は後々まで、シューマンとクララ二人を苦しめることになる。そのため、クララとシューマンの恋愛は、まるで苦労と忍耐の末に幸せになる童話の中の王子様とお姫様の様になった。しかし、一緒になってめでたしめでたしとい落ち着くわけにもいかなかった。その後、シューマンは自殺未遂、発狂という悲劇的な最後を遂げる。そして、束の間の幸福の時間に作曲されたのが『子供の情景』。もしかしてシューマンが愛していたのは、クララの中にいる子供だったのかもしれない。

少年や六十年後の春の如し  永田耕衣

私の祖父は、同窓会はマメに出席する人だった、祖父の小学校の時の同窓会の名前は確か「忘れた会」(忘れたかい?の洒落か)という会だったと思う。ある日、同窓会が終わって会場を出ると、春の雪がかなり降っていてだいぶ雪が積もっていたらしい、積もった雪を見て思わず皆でうれしくなって雪投げをしながら帰ってきたという話を聞いたことがあった。
雪を見て、思わず子供にかえって雪投げをしてはしゃぐお爺さんたち。その話を聞いて、子供心になんていい光景だろう・・と思ったのだ。お爺さんの頭の中にはいつもひっそりと少年が住んでいる。

そして、お爺さんの頭の中に住んでいる少年は淡雪のようにはかない。

私の祖父は気が短くて我儘なところもあったが、ネガティブな感情をいつまでも引きずらない人だった。子供の私の人格も尊重して対等に扱ってくれるようなところがあり、成熟した大人の寛大な視点と、子供のように無邪気なところを両方持っていた。祖父は若い時に息子を亡くしていて、その深い悲しみが祖父を、人生の真実を知る大人にしたのかもしれないと思っている。

晩年のホロヴィッツが『子供の情景』を演奏しながら涙を流しているのをyou tubeで観る。ホロヴィッツは人を引きずり込むような天性の魔性と、非常に理知的な大人の部分と両方持ったピアニストで、彼もまた人生の深い悲しみと真実を知っている、成熟した精神の人だろう。成熟した精神は老人であると同時に子供でもあるのだ・・

―あらゆる子供の中には驚くべき深さがあるー『音楽と音楽家』シューマン

父もまた、年取るにつれて子供時代の話をすることが多くなった。それは決して「昔はよかった」式の回想をしているわけでもなく、年取ってから人が子供時代を回想しがちなのは、子供というものが光り輝く生の神秘の最も近くにいて、まだ新鮮な感受性を持っているからじゃないだろうか。
そして芸術家の想像力の源泉も子供時代の記憶の中に豊富に埋もれているような気がするのである。

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