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梟翁夜話 №82 [雑木林の四季]

翻訳松竹梅
            翻訳家  島村泰治

鰻は松竹梅、ときに特上、並みなどと格付けをして、魚の大きさで値を違える。当然ながら職人の技倆で上下もするが、およそ鰻の値段は大小で決まるとしたものだ。わが好みの目黒の「にしむら」は、健気にも長いこと松を2700円で食わせてくれた。彼処の鰻の舌触りを慕ってしげしげと通ったものだ。いや、脱線はならぬ。

さてその松竹梅だが、わが生業の翻訳にもどうやらその気配があるのだ。まして、鰻なら大小に相応する質の上下ならいざ知らず、全く愚劣な尺度で翻訳が松竹梅と格付けされてゐる気配を、筆者は甚だ心穏やかならぬ思ひで憂えてゐるのだ。

知る人ぞ知る、翻訳は創作とは一味違う知恵と趣が求められる芸だ。比較文化の分析能力は言うに及ばず、言葉と云ふ生き物への対応能力が不可欠で、ただ単に言葉を右左(みぎひだり)する芸では決してない。学術書ならひたすら正確無比、文学書なら一方の思いを他方に移し替える感受性こそが要だ。

さて、読者諸兄姉にお伺いしたい。左様なまともな翻訳論には埒外なある技術が、他ならぬ翻訳と対比して扱われてゐる現状にお気付きだらうか。お察しの如く、それはAI(人工知能)、多彩な機材に取り込まれていま市井の便宜に活用されてゐる技術だ。それはいい。いいのだが、それが人間翻訳の適否を格付ける尺度とされ、鰻ならぬずばり「翻訳の松竹梅」が出現したとすれば只事ではない。

誤解のなき様願いたいのは、翻訳の松竹梅は定着したものではなく、あくまで筆者の恣意的な言葉遊びに過ぎない。あくまで本来の翻訳力で緻密に拵えた翻訳を「松」、機械翻訳で荒訳した「翻訳原稿」にシンタックスの手直しを加えたものを「竹」、荒訳そのものの打ちミスを直したものを「梅」と称する格付けだ。

筆者がたださう思ふといふだけなら罪もない話だが、この格付けで翻訳者を求める慣習が近頃CS(クラウドソーシング)上で頓に蔓延ってゐるから事件なのである。流石に松竹梅と銘打って募集はしてをらぬまでも、それぞれを前提として価格を提示してほしいと求めるに至っては、語るに落ちるも甚だしい。

人間翻訳はAIに勝てるかとのテーゼに「勝てる」と踏んだキンドル本、『AI時代に人間翻訳は生き残るか?』の著者としては、この趨勢は見逃せない。翻訳を比較文化の舞台と看做す筆者の目には、翻訳は松に限るのだ。まして「思ひ」を左右する文学の世界なら尚のこと松でなければならぬ。百歩譲って、昨今のAIの機能進化を斟酌してデータ指向の学術ものなら「竹」もありか、と思へる。「梅」となれば歯牙にもかけぬ。これは最早翻訳の範疇には足の指先さえも入らない。鰻なら、即突っ返すか塵箱に放り込む。

ランサーズなどCS上で依頼を受ける筆者は、この手の不埒な依頼者を避けやうとレートを上げて対応してゐる。そんなレートでは竹も梅もなからうと発注者のオリエンテーションを図ってゐるのだ。この世界に踏み込んで数年、やうやく翻訳市場の空気を嗅ぎ分けることができるやうになった。

できるやうになって悟ったことがある。AIは確かに進化してゐる。並みの駄文なら学生の下訳ほどには捌く力があるから、日常のユティリティー目的ならAI翻訳で十分だ、と。ならば、凡そ翻訳家を謳う者は改めて心を定め、期して「松」を貫く気概に生きることこそ心意気と云ふものではなからうか。





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