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多摩のむかし道と伝説の旅 №57

       中世の軍同 深大寺道を行く 3

            原田環治

深大寺道3-1.jpg 境浄水場の外周に沿って井の頭通りを西へ向かうと、筋向いの武蔵野市立第五中の横から、大師通りと名を変えた深大寺道の続きが現れる。大師通りの名は深大寺を中興したのが元三大師であり、深大寺に元三大師堂があることから、元三大師堂へ通じる道ということからきているのであろう。ゆったりとカーブする狭い街路はいかにも古道らしい印象を留めている。関前南小を左に新しく出来た市民の森公園を右に見て道なりに進むと、大きな花屋さんのある角で車両の行き交う五日市街道に丁字路でぶつかる。その街道の筋向いに石塔が立っている。御門訴事件記念碑と呼ばれる石碑だ。御門訴事件とは明治3年(1870)その前年に品川県から布達された社倉制度(飢饉に備えるための貯穀制度)があまりにも過酷な内容だったので、それに反対した旧関前村新田を含む武蔵野12ヶ新田の農民7~800人が品川県庁へ門訴(直訴)し、多数の負傷者、逮捕者、牢死者を出した事件だ。記念碑は当事件で非業の死をとげた旧関前村・同新田名主井口忠左衛門等を慰霊するとともに、その事績を後世に残すために、明治27年に旧関前村の総意を得て、自由民権運動の推進者で後に自由党副総裁となった中島信行により建立された。
深大寺道3-2.jpg 五日市街道に沿って、西へ100mばかり進めば大きな通りとの丁字路帯に出る。青い陸橋があり、筋向いには武蔵野大学のキャンパスがある。以前は武蔵野女子学院と称していた。陸橋に上がると、下の大通りは中央分離帯の緑が豊かで、その中ほどに一筋の川が流れている。この川はここより1km南を流れる玉川上水の境橋付近から分水された千川上水だ。江戸時代に開削された由緒ある分水だ。すなわちこの丁字路帯は一見したところ解かりにくいが千川上水に架かる橋になっている。橋は井口橋と呼ばれ、橋の袂には石橋供養塔など数基の石塔が立っている。千川上水は江戸時代の元禄9年(1696)、将軍の立寄先である小石川白山御殿、湯島聖堂、東叡山、浅草寺御殿等深大寺道3-3.jpgの飲料水を賄うために、玉川上水の境橋付近から分水され、巣鴨までの約30kmを素掘りで開削された水路だ。江戸市中の飲料水や上水沿いの農地の灌漑用水としても大いに利用された。今は大半が暗渠となってしまっているが、境橋から青梅街道と交差する水道端の伊勢橋迄の約8kmは開渠となっている。開削は川村瑞軒が設計し、徳兵衛、太兵衛の両人が工事を請け負い、加藤屋善九郎と中島屋与一郎が金主として参加した。総工費は1340両を要したが、幕府が支出したのはわずか480両に過ぎなかったという。徳兵衛、太兵衛はその功績により千川の姓と帯刀を許され、子孫は代々千川取締役を務めた。正徳4年(1714)白山御殿が閉鎖され、幕府は千川上水を不要として廃止し、市中への引水を停止したが、灌漑用として使われ続けた。明治以降は工場用水としても利用され、大蔵省印刷局王子工場が大量に使っていたが、昭和46年取水を止めたことから、上水はその使命を一旦終えた。その後東京都の清流復活事業により、野火止用水、玉川上水に続き、平成元年、千川上水にも再び清流が蘇ることになった。
深大寺道3-4.jpg 陸橋を降りるとそこは西東京市で武蔵野大学の正門前だ。その右隣に入る真直ぐ北へ伸びる瀟洒な街路が深大寺道の続きだ。街路の入口に「深大寺街道」と記された道標が立っている。現在深大寺道を標榜しているのはこの通りだけだろう。深大寺街道は旧田無市と旧保谷市の市境を、左に武蔵野大学、右に武蔵野運動場を見て進むと、都立田無工業高校との間の辻に来る。その辻の一角に古びた石標柱が立っている。標柱はこの道筋が深大寺道であることを示す重要な道標となっている。道標は欠けや磨滅で判然としないが、正面に刻まれた文字から田無村の荒井安右衛門等によって安永7年(1778)造立されたことがわかる。また左側面には「東江戸、西府中」、右側面には「北□□□、南□大寺道」と刻まれており、その「□大寺道」が深大寺道を指すのであろう。
深大寺道3-5.jpg 道標を後にして更に住宅街の道を進む。程なく緩やかな下り坂となり、坂を下って行くと、沿道左の民家の片隅に小さな地蔵堂がある。「ほうろく地蔵」という。 地蔵が背にしている光背が焙烙素焼きの底の浅い土鍋に似ていることからこの名があるというが、どんな由緒があるのかはわからない。境橋で石神井川を渡ると程なく車の行き交う青梅街道に出る。深大寺道は50mばかり西へ進んだ所の稲荷神社の脇を入る小道に繋がっているが、西武新宿線のガードをくぐった所で消滅してしまっている。やむなくこの先は青梅街道の筋向いに入る榎ノ木通りを進むことにする。榎ノ木通りに入る深大寺道3-7.jpgとすぐ西武新宿線の踏切となる。踏切を渡ると線路沿いを東西に走る富士街道と交差する。辻の一角には古びた地蔵堂が立っている。六角地蔵石幢で知られる堂宇だ。六角地蔵石幢は、寛政7年(1795)造立された。ほぼ正六角形の石柱で、各面の上部に六体の地蔵菩薩像を浮彫りにし、その下に銘文を施している。その銘文によれば、この石幢は「つや」という女性と「光山童子」の菩提を供養するために、野口助右衛門と秋山十右衛門が、江戸市ヶ谷田町の石工角田屋に注文して 建立されたものという。富士街道と深大寺道が交差するところに立ち、道標を兼ねているとのことだ。(つづく)


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