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批判的に読み解く歎異抄 №23 [心の小径]

異義篇をどう読むか―『歎異抄』の著者(唯円)の立場
 
        立川市・光西寺住職  寿台順誠

②十二条 ― 学解念仏

 次に十二条は長いから最初の方だけ読みます。

 経釈をよみ学せざるともがら、往生不定のよしのこと。この条、すこぶる不足言の義といいつべし。他力真実のむねをあかせるもろもろの聖教は、本願を信じ、念仏をもうさば仏になる。そのほか、何の学問かは往生の要なるべきや。まことに、このことわりにまよえらんひとは、いかにもいかにも学問して、本願のむねをしるべきなり。経釈をよみ学すといえども、聖教の木意をこころえざる条、もっとも不便のことなり。一文不通にして、経釈のゆくじもしらざらんひとの、となえやすからんための名号におわしますゆえに、易行という。学問をむねとするは、聖道門なり、難行となづく。あやまって、学問して、名聞利養のおもいに住するひと、順次の往生、いかがあらんずらんという証文もそうろうぞかし。

 読むのはここまでにしときましょう。ここまでで十分です。後は聖道門の学問をしている人から議論をふっかけられても相手になるな、と言っているだけです。これは、学問して自分を高めようとしないと駄目だなどと言うのは異義だと批判する条文です。それで、ただ「本願を信じ、念仏もうさば仏になる」ということさえわかればよいので、もしそれが信じられないならそれを信じられるための学問は必要だとは言うけれど、とにかく「学問をむねとするは、聖道門なり、難行となづく」と言うわけですから、ここでの批判の対象は「造悪無碍」ではなくてむしろ「専修賢善」だと言えるでしょう。「聖道門」批判と言ってもよいですけど、要するに自ら善を積み、努力し学問をやって自分を高めましょう、そうじゃないとだめですよと言っている異義を批判しているのですから、十二条は「造悪無碍」に対する批判とは全く読めないのです。ここではそれだけ分かっていただけば十分です。

名古屋市中川区 真宗大谷派・正雲寺の公開講座より


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