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医史跡を巡る旅 №83 [雑木林の四季]

コレラ、江戸時代から明治にかけて~前篇

          保健衛生監視員  小川 優

2月に入って緊急事態宣言は1か月延長され、新型インフルエンザ等対策特別措置法と感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律(感染症法)も改正施行されることとなりました。最近ではCOCOAの不具合と、ワクチン接種開始に多くの人の関心が移り、患者数の減少と相まって、改正法の運用などはすっかり興味が失われてしまった感じがします。次から次へと新しい事象が発生すると、必要な論議や検討が行われないまま、適当に既成事実化され、後から「こんな筈ではなかった」ということにならないかが、不安です。法案さえ通ってしまえば、実際のところ運用にあたっては所管省庁の意のままで、もはや異の唱えようがないということもしばしば見られるからです。

先に予定ありきのワクチン接種の実施についても、不安しかありません。先行諸外国の失敗事案を踏まえた上で計画されているとはとても言い難く、「やってみなければわからない」状態のまま日程ばかりが迫っています。

あだしごとはさておき。
昨年後半、幾度かにわたって江戸の厄病をご紹介してきましたが、また大トリが残っています。江戸の疫病、というより江戸時代を終わらせ、そのまま明治にかけても猛威を振るって多くの人命を奪った、コレラです。
今回は江戸期の3回の大きな流行について、取り上げたいと思います。

コレラが歴史の表舞台に出たのは、19世紀になってからです。もともとアジアの各地で散発的に発生していたと思われますが、1817年にカルカッタ(現コルカタ)に端を発し、瞬く間にアジア全域からアフリカに広がり、1823年まで続きます。これが1回目のコレラ・パンデミックと言われています。パンデミックの余波は当時鎖国中の日本にまで及びます。
文政5年(1822)、おそらく中国か朝鮮を介して対馬、下関あるいは長崎から侵入。萩、広島から関西方面に広がりました。初めて見る下痢を中心とした激烈な症状、急速な病状の悪化から死に至ることから、対馬では「見急」、豊後で「鉄砲」、芸州では「横病」、浪華の「三日コロリ」などと呼ばれました。
この時の流行では、萩城下で8月に死者は600人に近く、広島、大阪でも多くの感染者と死者を出しました。大阪では「千日の墓地に荼毘で附したもの二千八百三十一人に及び」との記録があります。昨年8月に梅田地区で再開発にあたり1,500体にも及ぶ人骨が出土した際には「墓地内の北側は石垣で区切られて一段低くなっており、土をかけたりしただけの埋葬や、穴に何人もまとめて入れた埋葬例が複数あった。発掘担当者は「疫病で一度に亡くなった人などが埋葬された区画かもしれない」と推測している」との報道もされており、先の記録を裏付けるものかもしれません。
やがて9月となり、気温の低下と共にコレラ感染の勢いが沈静化したため、それ以上東上せず、東日本には広がりを見せなかったと考えられます。

2回目のパンデミックは1826年に始まり、アジア、アフリカばかりかヨーロッパ、南北アメリカまで広がりましたが、幸いにも日本には侵入せず、1837年まで続きます。フランスでは、ブルボン朝最後のシャルル10世がこのときコレラにり患して死亡しています。

3回目は1840年から1860年まで20年も続き、またも世界中で猛威を振るいます。アメリカでは第11代ポーク、第12代タイラーと、2人の大統領の命を奪ったほか、イギリスの首都ロンドンでは10,000人以上が亡くなります。このとき、ソホー地区のブロードストリートではわずか2週間で700人が死亡します。患者の発生に地域の偏りがあることに気が付いた医師のジョン・スノウは発生状況を綿密に調べて、一つの井戸に注目します。多くの反対をうけながらも井戸のポンプを使えなくしたところ、急速に同地区における感染は収束しました。後の調査で、その井戸の近くに患児のオムツを洗った水を捨てたことが、この地域における流行を引き起こしたことが判明します。これが科学的な疫学調査の始まりとされ、公衆衛生の礎となります。
そしてこの3回目のコレラ・パンデミックは日本にも大きな影響をもたらします。安政5年(1858)5月21日、アメリカ軍艦ミシシッピー号は上海寄港の後、長崎に入港します。乗組員の中に感染者がいて、まず長崎で広まります。長崎にはオランダ海軍軍医ポンペと、彼に師事していた松本良順がいて、予防と治療に努めますが700人以上が犠牲になったとされます。この時に開設されたのが長崎養生所で、初の西洋式近代病院と言われます。

その後九州各地や山陰・山陽を席巻し、すでに6月には京都に達したといわれます。京都における死者は洛中1,869人、洛外835人との記録があります。さらに翌7月には江戸に達します。

この時コレラが各地に残した爪痕を追ってみます。
長崎に始まった流行は、大阪、京都を経て東海道または中山道を伝わって東上したと考えられていましたが、参勤交代の宿地毎に飛び火的に、あるいは廻船の寄港地に侵入し、その周辺に広がった可能性も否定できません。
浜松は天竜川の手前にあたり、夏場は特に川止めにあった参勤交代の一行が逗留することが多かったためか、患者の発生を見たようです。浜松駅のほど近く、夢告地蔵尊が祀られています。

「夢告地蔵尊」
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「夢告地蔵尊」 ~静岡県浜松市中区中央
もともとは安政5年、コレラで亡くなった人々を供養するために建立され、信仰を集めたと伝えられています。

「夢告地蔵尊御堂」
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「夢告地蔵尊御堂」 ~静岡県浜松市中区中央
ところが明治となり、廃仏毀釈のあおりを受けて一旦は地中に埋められてしまいました。大正8年(1919)になって、町民の夢枕にお地蔵さまが立ち、世に出たいと告げたため、古老の記憶に頼って掘り起こし、再びお祀りしたとの謂れから夢告地蔵と呼ばれています。その後戦災等に見舞われましたが、都度復興して現在も厚く信仰されています。

箱根の麓の城下町、小田原では7月頃には感染者が出始めたようです。茅ヶ崎の名主が記録した内容の中に、参勤交代の途中であった伊予松山藩の松平氏の家臣たちが、小田原宿で次々と倒れたことが記録されています。そして小田原から神奈川県内に広く広がったとされます。

「袖ヶ浦地蔵尊」
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「袖ヶ浦地蔵尊」 ~神奈川県小田原市浜町
厄払地蔵、通称やんばら地蔵と呼ばれています。漁師の網にかかった石仏を祀ったものが始まりといわれます。

「袖ヶ浦地蔵尊御堂」
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「袖ヶ浦地蔵尊御堂」 ~神奈川県小田原市浜町
安政年間には相模湾沖合で獲れた魚を食べてコレラに罹り、村内から多くの死者が出た時に、疫病退散の御利益ありとして崇拝されました。

「下久保の題目塔」
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「下久保の題目塔」 ~神奈川県小田原市曽我別所
小田原から酒匂川沿いに松田へ向かう道筋に梅林で有名な曽我があります。その曽我の梅林の近くの街道筋に、道祖神など数基の石造物があり、この中に中央に「南無妙法蓮華経」と彫られた題目塔があります。

「下久保の題目塔 拡大」
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「下久保の題目塔 拡大」 ~神奈川県小田原市曽我別所
碑の表面の石の腐蝕が激しく、字が読みづらいですが、画像でも辛うじて読める「天下泰平」の字の横に「安政五午歳七月□日疾病此村」と刻まれています。安政五年、この地にコレラが侵入し多くの人が苦しんだ時に、昼夜を続けて題目(法華経)を唱えて病魔退散を祈ったことが記されています。

長くなりました。まだ江戸に至っていませんが、今回は相模川を渡る前に一休みといたしましょう。


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