SSブログ

海の見る夢 №1 [雑木林の四季]

聖ヒルデガルドの音楽

                澁澤京子

 『惑星ソラリス』は、(思考する海)のある惑星の話でちょっと悪夢のようなSFでしたが、私は人の無意識というのはつながった全体で、何かもやもやとした海のように存在しているのじゃないかと思っています。そしてそれは目に見えない音楽のような世界だという気がしてなりません。そしてこの世界は、その海の見る夢にすぎないのだとしたら・・

父のために、朝晩二回看護婦さんが家にやってくる。「おはようございます!」耳の遠い父に向かって、毎朝元気な声で話しかける看護婦さんは父と話をしているというより父の命に向かって話しかけているような気がする。彼女たちは父の顔色とか尿とか熱とかに敏感で、父の身体とコミュニケーションをしているのだ。看護婦さんたちと時折おしゃべりするけど、毎日、人の命と真剣に向かい合う仕事をしている人たちの話はとても深くて、勉強になります。「私は何かに生かされているんだと思います。」という若い看護婦さんの言葉が印象的で、人の命と向かい合っていると、自然に謙虚な気持ちになるのだろう・・

自分の食事のことも身体の事も後回しにして、どんなに疲れていても文句ひとつ言わずに明るく患者を励まして世話する彼女たちの表情はとても美しい。

去年の暮、四谷にあるキリスト教専門の本とCDの店で、店の女の人に薦められたのが聖ヒルデガルドの作曲した音楽だった。聴いてみるととても美しくて、グレゴリオ聖歌の好きな人はきっと気に入るだろう。聖ヒルデガルドは1079年、ドイツの貴族の家に生まれた。子供のころからの幻視により音楽と医療、宇宙と神学は一つであること知り、生涯にわたって幻視の源とコンタクトを取り続けた。今でいう、ホリスティック医学やホメオパシー、アロマテラピーの元祖のような修道女。

当時、カトリック教会が異端としたカタリ派が肉体と精神を完全に別のものと考えていたのに対し、聖ヒルデガルドは肉体と精神を同レベルと捉え、宇宙も(私)の一部と考えていた。神と人を同一視するヒルデガルドの考え方も、カトリック教会からはかなり異端に近い思想だったのじゃないだろうか。

ちなみにデカルトの「コギト・スム」(考える故に存在する)に先立つアウグスティヌスの「スム・コギト」。直訳すれば(存在する故に考える)だけど、存在は神であると考えれば、意識の根底には神の存在があると解釈することができる。アウグスティヌスの時間論を読んでいると、神は時間とともにある→時間は精神の延長・・ということで、あくまで「神」は人と連続した存在で、人の意識の根底にあるものということになる。

「・・魂と肉体が一つであるように、神と人間は一つのものです。」聖ヒルデガルド

聖ヒルデガルドの自然観察が、科学的というより何か童話の中に出てくる北風とか太陽、月のようなほのぼのした感じがするのは、聖ヒルデガルドが「宇宙=人」という人と自然を同一視する視点を持っていたせいだろうか。聖ヒルデガルドはいろいろな感覚器官を総動員して、人と自然、世界とコミュニケーションを取れる人だったのだ。

聖書の「悪魔」の語源は、(中傷する者)(試みる者)だそうで、そのベースには(疑い)がある。中傷には他人を蹴落とそうとする心理があり、試みるはエゴイズムによる計らいのことで、どちらも(疑い)から起こる。芥川龍之介の『蜘蛛の糸』。夢中になって上るのをやめ、ふと止まった時に疑いと不安の心が起きて「自分が・・」と、他人を蹴落とした途端に天上に続く蜘蛛の糸はプツッと切れて奈落の底に。人のエゴイズムがどういう状況の時に出てくるかを実によく描写してある。聖ヒルデガルドにとって、悪とはそうした存在(神)に対する(不信)が基になった不調和の状態であり、人間の魂は必ず病んだ状態から善に向かおうとするものであり、病気というのはそれを気付かせてくれるサインなのだそうだ。(不信・不安)はアダムとエヴァが神に背き楽園を追放された時から、人が皆持っている悪徳。それが基になって生まれた、自惚れ、臆病、貪欲、名誉欲(承認欲求)、虚栄、悪意、嫉妬・・といった数々の悪徳は人を不幸に突き落すものであり、聖ヒルデガルドの治療法は幸福のガイドブックといったところだろう。

こうした病を治療する方法として、音楽、ハーブを使った食事療法、また宝石療法というものもあり、ちなみに私は冬になると必ず膀胱炎を起こす。ヒルデガルドの本を見てみると、膀胱炎は贅沢・浪費癖の悪徳と関係があるらしい。私は贅沢ではないけど自己中心ではあるし、やや浪費癖はあるだろうか?浪費癖のある人は食事療法の他、サファイアを一晩浸したワインを飲むとよいと書いてあって、浪費癖の治療のためにサファイアが必要では、逆に浪費になるのでは?と疑問もおこるが、聖ヒルデガルドの治療対象者には王侯貴族の人々が多かったので、彼等は宝石をふんだんに持っていたのかもしれない、そこからおそらく宝石療法が生まれたのだろう。聖ヒルデガルドは今流行りのヴィーガンであり、パワーストーンの元祖でもあるのだ。宮澤賢治は鉱物が好きで、よく宝石の名前が童話に出て来るけど、聖ヒルデガルドによると、鉱物にはそれぞれ独特のいい波長を持っているらしい。

個人的には、聖ヒルデガルドは音楽療法が一番効果があるような気がします。(you tubeで検索すると聴くことができます)

聖ヒルデガルドの調和の思想には、ピュタゴラス~プラトン~ポエティウスの「世界は数的法則の上にある」の影響がかなり色濃くあるんじゃないかと思う。

ポエティウスは音楽を(道具の音楽)(人間の音楽)(世界の音楽)に分けた、世界の音楽(ムーシカ・ムンダーナ)は天空の音楽(ムーシカ・ケレンティス)に変化していくのである。そして、天空の音楽(ムーシカ・ケレンティス)を私たちを取り巻く世界の基礎となる調和とした。天空の音楽に変化するのは教会音楽で、聖ヒルデガルドの時代の教会音楽はまだ単旋律(モノフォニー)が主流、複旋律(ポリフォニー)に移り変わる過渡期にちょうどあり、教会音楽でポリフォニーが主流になるにつれ、世俗音楽ではトルバドゥール(吟遊詩人)が登場して、単旋律音楽(モノフォニー)が流行り出した。

この時代の音楽は素朴で、聞いていると気持ちが落ち着くような静かな曲も多い。

聖ヒルデガルドの少しあとには、祈りによる神との取引(天に宝を積むというご利益宗教としてのキリスト教)の禁止、善人になろうとするための祈り(~すれば~なる)は不純であると、動機が自己目的になる祈りを徹底的に否定した神秘主義者エックハルト(1260~1328)がいる。エックハルトが言っているのは、徹底的な自我の否定。『キリストにならいて』の著者であるトマス・ア・ケンピス(1379~1471)など中世のドイツには魅力的な聖職者がたくさん登場する。

ずいぶん前、余命いくばくもない犬と八ヶ岳に長く滞在していたときに、母の友人Nさんからホメオパシーの仕事をしているKさんと言う女性を紹介された。江戸時代から続く古い薬問屋に生まれたという薬剤師の女性。ホメオパシーの勉強のためにイギリスに留学していたのだという。彼女の別荘に招待されると、「カンヌで買ってきましたのよ。」と言いながらシャンパンをあけてくれて、「私にはサイズが合わないのだけど、もしよかったら着てくださるかしら?」と高そうなフランス製のブラウスを持ってきて見せてくれたので、それを貰って帰ってきたことがある。山を一望できる見晴のいいバスルームの付いた、贅沢な別荘だった。初めて会ったのが森の中のせいか、Kさんはなんとなく、中世ヨーロッパの薬草に詳しい、魔女のような不思議な雰囲気の女の人に見えた。しかし、あの晩、彼女と食事をしながらいろいろな話をしているうちに、なんとなく私は自分の人生での思い切った決断をすることができたのだ・・やはり彼女は魔女だったのかもしれない。

友人に聴くと、ホメオパシーはフランスでは日本の漢方のような感じで普通の薬局でも売っているのだそうだ。わらにもすがる思いで、末期がんの犬に購入したホメオパシーの薬を何種類か飲ませたけど、獣医師の予告した通り、犬は秋になって死んだ。

犬が死んだのは秋の夜更け。息を引き取ったのは、ちょうど私がバッハのカンタータを聴いている時だった。人の寿命も犬の寿命も、すでに決まっているものなのかもしれない。死ぬときにちょうどバッハのカンタータが流れていたのは、もしかしてあれがホメオパシーの効果だったのか?


nice!(1)  コメント(0) 

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。