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日本の原風景を読む №19 [文化としての「環境日本学」]

山  山岳に宿る神仏

  早稲田大学名誉教授・早稲田環境塾塾長  腹 剛

 日本の多くの山岳はその晋に「神」か「仏」あるいは「神仏」を祭る。ここに紹介した鳥海山は日本の神々の属性である穢れを嫌う大物忌神を、北アルプス奥穂高岳は信州安曇野族の先祖神穂高見命、津軽岩木山は阿弥陀仏如来をそれぞれの山頂に祭る。磐梯山も月山も山そのものが神とされる山岳信仰の神体山である。しかし「ご神体」が何であるかは客観的に説明出来ない。
 すぐれた山岳風景の地で、とりわけ少年少女時代を過ごした人々にとって、「山岳」は精神形成の原風景となる。
 文芸評論家奥野健男が『文学における原風景』で論証し、長野県穂高町出身、『安曇野』の作家臼井吉見が「神、自然、人がまじわる」北アルプス安曇野の常念岳山麓で、小学生時代に体験した事実である。
 山岳に神を視た山岳信仰は、神道、仏教、道教と習合し「修験道」へと展開する。習合とは別々の存在がその本質を変えずに並在し続けている姿である。従来の日本の神を奉る神道と外来の仏教が習合した神仏習合の形態は、春日大社と東大寺の関係にみられるように、現在の奈良、京都を初め全国到る所で「神社-神宮寺」の相互依存の鮮明な形で表現されている。
 この篇に特集したすべての山岳に、山岳信仰-修験道の歴史が刻印されている。
 例えば月山に連なる出羽三山の深奥に位置する湯殿山のご神体は、渓谷に鎮座し透明な温泉が噴き出す赤褐色の巨岩である。訪れた者は巨岩神の前でおはらいを受けて、裸足になり、岩肌を雫する温泉に足を浸して、神の岩に登る。万物に魂が管と考えた縄文文化に由来するアニミズムの表現である。「富士山岳仰の対象と芸術の源泉」(世界遺産であることの標題)が、国連機関の認めた人類普遍の価値とされていることを想起したい。「語るなかれ」「聞くなかれ」と口外を禁じた湯殿山のご神体は、目で見ることも言葉で表現することも不可能な、しかも己の足元に神を踏まえることが可能な神である。いわば極めて主観的な「気配」こそが、「ご神体」の本質であることを「語るなかれ」 の不文律は自ら語っている。
 近代化を国是とした明治政府は宗教の習合を嫌い、神と仏を分離しようと試みた。神仏分離令(明治初年、一八六八年)にもとづく廃仏毀釈キャンペーンが例の路線は、天皇の神格化に到り、国家の制度としては太平洋戦争で自壊した。しかし「神仏習合」の生活流儀は、神社で七五三のお祓いを受けた子どもたちが、お寺の読経に参加する社会の通過儀礼に鮮明に受け継がれている。
 仏教と日本の神を仏教教理により結びつけた「本地垂迩」の由来など、神仏習合の成り立ちを、「山岳篇」で理解したい。

 二〇二〇年現在、鳥海山、月山、磐梯山のいずれもが山岳信仰、修験道に集う人々で賑わっている。疑いもなく、それら神仏習合への関心は、現代にあってもなお日本文化の基層に息づいている。八百万の神への意識、無意識の反応は、「文化としての蛍の灯」で紹介した山形県高島町で点から面へと進展した有機無農薬農法との関連にみられるような柔軟な社会性をもたらしている。ただし、一九七四年に発足した高畠町有機農業研究会を率いてきた星寛治さんは、「神仏の領域で事が済む話ではない。科学性こそが求められる」と研究会の理念を述べている。柔軟性の反面で、日本人の融通無碍の無原則な考え、絶対に譲れない「かけがえのない原則」を持たない行動が、数々の異常な事例を招いている。奥底には企業経営者、官僚、政治家の言動に顕著なこの融通無碍の無責任性、その場しのぎの機会主義、普遍的な価値に先んじて、状況の特殊性を言いつのる日本的特性が潜ん
でいるように思える。
 自らの、または集団の、組織の都合と利益を理由に、鎗特も規矩もへナへナと崩れ折れるのである。一九六一年以来、水俣病から二〇一八年の自動車排気ガス規制値改ざんの事件に到る、環境破壊の取材現場で筆者が知り得た事実である。それもまた日本人社会の主体性なき原風景である。
 本書「あとがきにかえて」に塚本邦雄の歌を引用したゆえんだ。

『日本の「原風景」を読む~危機の時代に』 藤原書店


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